紀州攻め(読み)きしゅうぜめ

山川 日本史小辞典 改訂新版 「紀州攻め」の解説

紀州攻め
きしゅうぜめ

1585年(天正13)3~4月,豊臣秀吉が行った根来(ねごろ)衆・雑賀(さいか)衆の討伐戦。3月21日,秀吉小牧長久手の戦で徳川家康と結んだ根来衆雑賀衆を討つため大坂城を出陣。千石堀・畠中・積善寺・沢城などを攻略後,23日には根来寺(和歌山県岩出市)に入るが,寺は出火によって全山焦土となった。24日,雑賀に入って一揆の棟梁土橋氏を攻め,25日には千石秀久・中村一氏が紀伊奥郡まで平定。4月22日,太田党がたてこもる太田城(和歌山市)を水攻めで陥落させ,この間4月10日には金剛峰寺を服従させた。紀伊は弟秀長の領地となる。これによって秀吉は本拠地大坂の前後を固め,また中世以来の寺院勢力に対して近世的支配を展開することになる。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内の紀州攻めの言及

【紀伊国】より

…なお根来衆と雑賀衆はいち早く鉄砲を導入した強力な戦闘集団としても著名である。かくて戦国時代の紀伊国には,畠山氏の分裂もあって,一国を統率するだけの有力者が台頭せず,新旧の地域的諸集団が同盟と抗争をくり返す状態が続き,国内の統一は織田信長や豊臣秀吉の紀州攻めを待たねばならなかった。【小山 靖憲】
【近世】

[支配の変遷]
 近世的な統一勢力の動きは織田信長の雑賀攻めころからみられる。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」