日本大百科全書(ニッポニカ) 「ガブリエリ」の意味・わかりやすい解説
ガブリエリ(Giovanni Gabrieli)
がぶりえり
Giovanni Gabrieli
(1553/56―1612)
16世紀イタリア、ベネチア楽派の頂点を築いた作曲家、オルガン演奏家。アンドレア・ガブリエリの甥(おい)。若いころの記録はほとんどないが、伯父のアンドレアに師事したと考えられている。1575~79年ミュンヘン宮廷で活躍したが、ふたたびベネチアに戻り、86年にはサン・マルコ大聖堂の第一オルガニストとなり、終生その地位にとどまった。宗教団体「スコラ・グランデ・ディ・サン・ロコ」のオルガニストも兼務している。伯父アンドレアの死(1586)後、ベネチアを代表する作曲家として活躍、97年に出版された曲集『サクレ・シンフォニエ』は、ドイツやオーストリアにおいて彼の音楽が流行するきっかけをつくった。シュッツをはじめとする多くの音楽家が、彼に学ぶためにアルプスを越えてベネチアにきたのはそのためである。しかし1606年以来、腎臓(じんぞう)結石に苦しみ、それが原因で12年8月12日、生地ベネチアで世を去った。
ベネチア楽派の特徴である多合唱様式(コーリ・スペッツァティ)は、彼によって頂点を極め、二重、三重合唱にとどまらず、四重合唱を要する大規模な作品も現れ、伝統的なモテット様式の究極の姿を示している。『ピアノとフォルテのソナタ』に代表される器楽合奏曲も多合唱様式を基盤とし、バロックのソナタや協奏曲の様式が形成される萌芽(ほうが)としても重要な意味をもっている。
[樋口隆一]
ガブリエリ(Andrea Gabrieli)
がぶりえり
Andrea Gabrieli
(1510ころ―1586)
16世紀イタリア、ベネチア楽派の作曲家。ベネチアのカナレジョ地区に生まれたため、アンドレア・ダ・カナレジョともよばれた。サン・マルコ大聖堂聖歌隊歌手として修業後ベローナで活躍したが、ふたたびベネチアに戻り、1585年にはサン・マルコ大聖堂の第一オルガニストとなったが、翌年末ベネチアで没している。死後、甥(おい)のジョバンニによって出版された『コンチェルト集』(1587)は重要であり、そのなかの四重合唱のためのミサ曲は、天正(てんしょう)遣欧使節歓迎のために作曲されたと推定されている。甥のジョバンニ、ドイツ人のハンス・レオ・ハスラーを教育した功績も忘れられない。
[樋口隆一]