出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
根来寺の僧兵集団。教団組織では行人衆をいう。その行動はとくに戦国時代に活発で,鉄砲を使用したことで知られる。戦国諸侯は〈金銭を以て彼らをやとい入れ〉,その数は〈つねに二万余人〉が準備されていた。文明期(1469-87)に和泉へ進出をはじめ,細川・三好と争い,永禄年間(1558-70)には泉南を支配した。粉河寺や高野山と領有権をめぐる争いをくり返して寺領拡大を図った。集団の指揮者は旗頭,大将とよばれ,泉職坊快厳,杉坊照算,岩室坊勢誉などが知られる。彼らは泉南,紀北の土豪と関係が深く,土豪たちで行人衆になったり,寺領代官を務めたり,寺坊持ちとなる者が多く,そのことが寺領拡大をいっそう容易にした。和泉・紀北は一向一揆勢力が強いが,表面的にはこれと争うことはなく共存した。しかし石山本願寺一揆では,情勢により織田方へつき,門徒の本願寺参詣を妨害するなどのけん制策をとっている。小牧・長久手の戦で徳川家康と盟約を結び豊臣秀吉の背後をついたが,1585年(天正13)豊臣秀吉の紀州征伐によって全山焼失し平定された。
執筆者:内藤 範子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
紀伊国の根来寺(大伝法院)の僧兵を中心とする集団。大伝法院は1288年(正応元)金剛峰寺から分離したが,金剛峰寺との抗争をくり返すなかで武装化を進め,戦国期には紀伊北部・和泉南部の地侍層や土豪層との関係を深め,鉄砲を導入して強力な組織を形成した。1585年(天正13)雑賀(さいか)衆とともに豊臣秀吉に抗して壊滅状態になったが,その後各地の大名に仕えた者は根来組とよばれた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…1460年(寛正1),細川勝元に支援された政長によって義就が守護を罷免されて以降,畠山氏は両派に分裂し,紀伊国は河内・大和国とともに激しい抗争の舞台となり,これが応仁・文明の乱に発展した。50年間にもおよぶ畠山氏の抗争は16世紀初頭に終息するが,この間に勢力をたくわえてきたのが根来衆と雑賀(さいか)衆である。根来寺の急速な発展を支えたのは,紀北・泉南・南河内の新興の土豪地侍層で,彼らは山内に子院をつぎつぎと建立し,高利貸や荘園の代官請などを通じて,紀北・泉州地域の荘園を蚕食した。…
※「根来衆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
東海沖から九州沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)沿いで、巨大地震発生の可能性が相対的に高まった場合に気象庁が発表する。2019年に運用が始まった。想定震源域でマグニチュード(M)6・8以上の地震が...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新