紀伊国海部(あま)郡(現,和歌山市)の地名。〈さいが〉ともいう。紀ノ川の河口部に位置するため,古くから漁業や外洋航海に長じた海部集団がいたと考えられる。3本の隆起性砂丘が南北に発達していて,砂地の地域が多く,田地として容易に開作しうるところは少ない。ちなみに《万葉集》に雑賀野,雑賀の浦,《中右記》には雑賀の松原などとみえる。名勝の地とされる吹上浜は西部に,和歌浦・玉津島は南部に位置し,奈良時代から平安時代にかけて,聖武,称徳,桓武の3天皇が玉津島に行幸して一躍世に知られるようになった。また平安中期以降も熊野詣や高野詣の帰途に,この地を遊覧した貴族が多い。平安末期には雑賀荘が成立したと考えられるが,鎌倉初期の領家として平親宗が知られるのみで,成立の経緯や伝領関係については不明な点が多い。ただし,1219年(承久1)に三浦氏の被官として雑賀次郎の名がみえ,51年(建長3)には雑賀荘が鎌倉の勝長寿院の料所にあてられているので,鎌倉中期以降は守護領であったとも考えられる。雑賀荘の北辺には紀伊湊が接しており,また外洋から湊に通じる紀ノ川が荘内を流れていたので,荘民の多くは物資の船舶輸送に深くかかわっていたと思われる。このため,雑賀荘は北に向かって拡大する傾向が早くからみられるが,紀ノ川の河道が現状に近くなった戦国時代には,粟・土橋から梶取・狐嶋にいたる肥沃な旧河道の一帯が雑賀にとりこまれ,その開発を通じて雑賀衆の中心をなす新興の土豪地侍層が台頭した。雑賀衆の多くは一向宗に帰依し,いち早く鉄砲で武装した強力な軍事集団として石山本願寺一揆には本願寺の後方基地の役割をはたした。この時期の雑賀一揆は,雑賀五組とも呼ばれており,雑賀を中心に,周辺の十ヶ郷,社家郷(宮郷),中郷,南郷(三上郷)が連合した広域的な集団であった。織田信長ついで豊臣秀吉の進攻によって雑賀一揆は壊滅し,征服後の秀吉はただちに雑賀の岡山の地に和歌山城を築いた。これ以後,雑賀にかわって和歌山がこの地域の名称として一般化するが,旧雑賀のうちには雑賀山,雑賀崎,雑賀町,小雑賀などの地名が今日まで残っている。
→和歌山[市]
執筆者:小山 靖憲
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和歌山市西部の一地区。旧雑賀村。『万葉集』にも「紀の国の雑賀の浦」とある古くからの地名である。海部(あま)郡雑賀荘(しょう)の産土(うぶすな)神矢宮(やのみや)神社のある関戸を中心とする紀ノ川下流左岸部で、織田信長に追われた本願寺顕如(けんにょ)を迎えて信長と戦った雑賀衆で知られる。現在は住宅地となっていて、秋葉山公園がある。
[小池洋一]
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