翻訳|Victoria
ハノーバー朝第6代のイギリス女王(在位1837~1901)。ジョージ3世の四男ケント公エドワードとドイツのザクセン・コーブルク・ゴータ(サックス・コーバーグ・ゴータ)公家のメアリー・ルイーザ・ビクトリアとのただ1人の子としてロンドンに生まれる。誕生の8か月後に父ケント公は没し、彼女の教育はコーブルク出身の家庭教師にゆだねられ、またのちにベルギー王となる母方の伯父レオポルトもイギリスにあって彼女に影響を与えた。このため少女時代は、イギリスの王家であるハノーバー家の人々から離れた生活を送っていたが、父方の伯父たちが次々と死亡したため、1837年6月に18歳でイギリスの女王の位についた。
[青木 康 2017年9月19日]
ハノーバーでは女子の王位継承が認められなかったため、この時点で1714年以来続いたイギリス、ハノーバーの同君連合は解消した。当時のイギリスでは君主の政治的権力は縮小しつつあったが、その限界はけっして明確ではなかった。当時の首相、ホイッグ党のメルバーンが彼女の信頼を得て立憲君主としての教育を行ったが、1839年には女王周辺の女官の人事が政治問題化するなど、治世初期は多難であった。同年秋、従兄弟(いとこ)にあたるザクセン・コーブルク・ゴータ公家のアルバートと婚約、翌1840年2月に結婚した。2人は幸福な家庭を築き、1841年には皇太子(後のエドワード7世)が誕生し、その後も何人もの子供に恵まれた。
女王は広く国民の尊敬を得られるよき妻として行動し、低落していた王家の評判を回復することとなった。夫アルバートは公的な面でも女王の優れた協力者となり、政党制の混乱した1840年代、1850年代に政治面で女王を補佐した一方、1851年のロンドン万国博覧会を成功させるなど、科学技術や芸術の振興にも力を尽くした。1861年にアルバートが病没し、以後女王は寡婦として公的な舞台に登場することを避けるようになり、スコットランドのバルモラルやワイト島のオズボーンに暮らすことが多くなった。しかし政治については強い関心をもち続け、女王としてごく詳細な事項についても報告を求めた。自由党のグラッドストーンを嫌った一方、保守党のディズレーリを寵愛(ちょうあい)し、彼の政策を支持して1876年にはインド女帝を兼ねることになった。治世が長くなるにつれてイギリスの象徴として女王がもつ意味はいよいよ大きくなり、1887年と1897年には、それぞれ治世50年と60年の記念式典が大規模に行われ、それを機にイギリス帝国の植民地会議が開かれた。女王は1901年1月22日に81歳で没した。
なお、彼女の王位を継いだエドワード7世より、王朝名は、ハノーバー朝からサックス・コーバーグ・ゴータ朝に変更された。
[青木 康 2017年9月19日]
ビクトリア女王の治世は63年7か月に及んだ。この時代はイギリスの最盛期で、産業革命を終えたイギリスが世界をリードしていた。女王はそのイギリスの栄光の象徴であり、彼女の娘の1人がプロイセン王家に嫁してドイツ皇帝ウィルヘルム2世の母となるなど、王家は外交でも重要な役割を担った。国内では、彼女の在位中に中流階級が目覚ましい成長を遂げ、議会制民主政治を発達させた一方、伝統的な支配階級である地主貴族階級と融合していった。その過程で、道徳を強調し体面を重んじる「紳士の国イギリス」にふさわしい文化が生み出された。女王は君主としての責任感が強く、治世を通じて積極的に政治に参与したが、彼女が息子エドワード7世に残したものは、国民の王家に対する尊敬の念と、立憲君主の「相談され、激励し、警告を与える」権能であった。
[青木 康 2017年9月19日]
『リットン・ストレイチー著、小川和夫訳『ヴィクトリア女王』(1981・冨山房)』
オーストラリア南東部の州。面積22万7600平方キロメートル、人口464万4950(2001)。州都はメルボルン。グレート・ディバイディング山脈が東西に延び、その北側はマリー川流域の低地、南側は低い丘陵地帯と海岸低地である。同国としては降水量に恵まれ、州面積の約3分の2が年降水量500ミリメートル以上で、土地利用も比較的集約的である。北部のマリー川流域では小麦栽培、牧羊(肉・毛用)が中心で、さらに肉牛飼育、灌漑(かんがい)による果樹栽培もみられる。山地では林業が行われるほか、起伏の緩やかな西部では牧羊(毛用)が発達している。南部では酪農および園芸農業が中心である。人口は西部、東部に比べて中部に多く、メルボルン都市圏に7割余りが集中する。
同州は人口・経済規模の点でニュー・サウス・ウェールズ州と並び同国の中核となる州で、相対的に工業に特化(専門化)しているが、農牧業および鉱業においても全国的に重要である。工業生産額の約9割がメルボルンおよびジーロングに集中し、全国生産額の約2分の1を占める輸送機械(おもに自動車)、繊維、衣料品をはじめ各種工業が発達しており、州の工業生産額は全国の3分の1余りに達する。農牧業の代表は酪農で、乳牛頭数は全国の約2分の1、バター生産量は全国の約8割を占める。鉱業の中心はバス海峡(ギプスランド沖合い)の原油・天然ガスで州鉱産額の4分の3を占め、原油は全国生産量の9割以上、天然ガスは同約2分の1を占める。また、東部のラトローブ地方にオーストラリア唯一の巨大な褐炭資源があり、おもに発電に利用されている。主要輸出品は羊毛、肉、穀物、酪製品、石油製品などで、日本は最大の輸出先であるとともにアメリカと並ぶ主要輸入先である。
1836年に当時のニュー・サウス・ウェールズ植民地の一地区として公式に発足し、1851年に分離して自治植民地となった。1850年代の金鉱ラッシュとその後の農牧開拓により発展した。1901年他州とともに連邦結成に加わった。
[谷内 達]
カナダ、ブリティッシュ・コロンビア州の港湾都市で、同州の州都。バンクーバー島南東部、ファン・デ・フカ海峡東端に位置する。人口7万4125、大都市圏人口31万1902(2001)。約90キロメートル北東に、ジョージア海峡を挟んでバンクーバーがある。内海に面し、天然の良港と温和な気候、風光美に恵まれた都市である。1843年にハドソン湾会社が交易所を設置したのが始まりで、バンクーバー島がイギリス王直轄植民地となった49年に首都となり、62年に時の女王にちなんで現市名となる。1908年カナダ太平洋鉄道会社によってホテルが建設されてから、保養地として発展した。市には連邦政府や州政府の行政機能が卓越しているが、カナダ随一の温和な気候のために退職者の移住地としても知られ、また、王朝風の美しい町並みを残し、ビクトリア大学、トーテムポール・コレクションのあるサンダーバード公園、州立博物館などがあり、観光地としても有名である。港からは石炭、水産物(サケ缶詰)、木材、パルプなどが大量に輸出されている。
[山下脩二]
スペインの作曲家。アビラに生まれ、生地の大聖堂で学んだあと、ローマに留学し、同地の教会やセミナリオなどで活躍(イタリア名Tommaso Luigi da Victoria)したが、1585年ころにはスペインへ戻り、マドリード近郊の修道院で、皇帝マクシミリアン2世の皇后だった太后マリアとその娘マルガリータに仕え、マドリードで生涯を閉じた。ビクトリアは、生涯を通じて宗教曲のみを書いた、当時としては珍しい作曲家で、スペイン・ルネサンス音楽の大家の1人である。ミサ曲、モテット、イムヌス、マニフィカートなど、残された多数の作品には、伝統的なフランドルの通模倣様式を基礎としながらも、スペイン特有の情熱にあふれた、劇的なまでの性格がみられる。
[今谷和徳]
アフリカ中西部、カメルーン西部の都市リンベの旧称。
[編集部]
インド洋西部の群島国セイシェルの首都。セイシェル諸島南西部にあるマヘ島北東岸に位置する。人口2万4701(1997センサス)、2万6300(2001推計)。同国唯一の外港船用の港として発展し、政治、経済の中心地である。コプラ、バニラ、ハッカなどが輸出され、茶の栽培や漁業も行われる。
[林 晃史]
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オーストラリア南東部の州。面積22万7600km2,人口493万(2006)。州都はメルボルン。東西にのびる大分水嶺山脈を境に,北側はマレー川流域の低地,南側は低い丘陵地帯と海岸低地である。州面積の約2/3が年降水量500mm以上で,土地利用も比較的集約的である。北部のマレー川流域では小麦や羊を中心に,肉牛飼育や灌漑による果樹栽培もみられる。山地では林業のほか西部で牧羊が発達し,南部では酪農,園芸が中心である。人口の約7割,工業生産額の約9割がメルボルンおよびジロングに集中している。人口,経済規模の点でニュー・サウス・ウェールズ州とならぶこの国の中心州である。自動車,繊維,衣料品をはじめ各種工業が発達し,工業生産額は全国の1/3余りに達する。農牧業の代表は酪農で,乳牛頭数は全国の1/2,バター生産量は全国の約8割を占める。またバス海峡(ギプスランド沖合)の原油,天然ガスは全国的に重要であり,ラトローブ地方にはこの国唯一の大規模な褐炭資源があり,発電に利用されている。主要輸出品は羊毛,肉,穀物,酪製品,石油製品などで,日本は最大の輸出先であるとともにアメリカとならぶ主要輸入先である。1836年にニュー・サウス・ウェールズの一部として発足し,51年に分離して自治植民地となった。1850年代のゴールドラッシュとその後の農牧開拓により発展し,1901年の連邦結成により州となった。
執筆者:谷内 達
カナダ,ブリティッシュ・コロンビア州の州都。大都市域人口33万4670(2005)。太平洋岸のバンクーバー島南東端,フアン・デ・フカ海峡に面する保養都市。良港をもち,1843年にハドソン湾会社によって毛皮取引のための集落がつくられた。1908年にカナダ・パシフィック鉄道会社によって豪華なエンプレス・ホテルが建設されてから,保養地として発展し,フェリーが本土との間を結んだ。カナダで最も温暖な気候に恵まれ,引退後の生活を送る移住者が多い。ビクトリア湾を見下ろす州議事堂の建物やイギリスの町並みを思わせる伝統的景観,トーテムポールのすぐれたコレクションを誇るサンダーバード公園や州立博物館などが観光客をひきつけている。
執筆者:正井 泰夫
スペインの作曲家。カスティリャのアビラに生まれた。1565年以後ローマに行き,イエズス会系神学校で学び,後に神学校の音楽監督,聖堂楽長をつとめ,75年司祭となった。若い時代にA.deカベソンに,ローマではパレストリーナに学んだと推測されている。現存の作品はすべて宗教合唱曲である。彼の音楽は,キリストの受難に関する作品ではきわめて劇的,沈痛かつ神秘的な性格をもつが,また一方では澄みきった明朗さを示す作品もあり,当時,インドや南アメリカにもその作品が伝えられたといわれる。代表作には,モテット《おお,道行く人よ》《聖週間の典礼》,2組の《死者のための典礼》(レクイエム)がある。
執筆者:坂崎 紀
東アフリカの東方,インド洋上の島国セーシェル共和国の首都。人口2万5000(2004)。セーシェル諸島中最大のマヘ島北東岸にあり,フランス領の時代にはマエとよばれ,1810年イギリス領になってビクトリアと改称した。気候は赤道に近いにもかかわらず健康的で,サイクロンの襲来もない。この国唯一の都市であり貿易港で,コプラ,ニッケイ,バニラ,ハッカなどを輸出し,漁港でもある。
執筆者:西野 照太郎
アフリカ中西部,カメルーン西部の港湾都市。人口2万7000(1976)。カメルーン山南麓,ギニア湾の奥のドゥアラ湾に臨み,ココア,コーヒーなどが主要輸出品である。1858年に宣教師が建設した町で,カメルーン独立前はイギリスの国連信託統治領の南東端に位置し,地名はイギリス領時代のなごりである。1971年に終了した第2次開発五ヵ年計画で港湾施設が近代化された。
執筆者:西野 照太郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中新世の造山運動によりできたとされ,西はニューギニア中央高地へ,東はしだいに高度を減じルイジエード諸島へとそれぞれ連なる。最高峰はビクトリア山(4073m)で,このほかにもアルバート・エドワード山をはじめ3000~4000m級の雪を頂く高峰をもつ。【石井 真夫】。…
…主として,16世紀後半から17世紀前期にかけて,ローマを中心に,厳格な〈ア・カペラ〉様式の教会音楽を作曲した一群の音楽家をいう。代表的な作曲家としては,パレストリーナ,ナニーノGiovanni Maria Nanino(1545ころ‐1607),ソリアーノFrancesco Soriano(1549‐1621),アネリオGiovanni Francesco Anerio(1567ころ‐1630),スペイン人ビクトリアらが挙げられるが,17世紀のバロック時代にスティーレ・アンティーコstile antico(古様式)の名で,パレストリーナらの様式に従って宗教曲を作曲したアレグリGregorio Allegri(1582‐1652),ベネボリOrazio Benevoli(1605‐72)らが含められることもある。 16世紀のローマ楽派の音楽家たちは,反宗教改革の粛正的気風のなかで,半音階的手法などによる不安定な情感の表出を排除した,清澄なア・カペラのミサ曲やモテットを作曲し,同時代のベネチア楽派とは対照的に,教会ではオルガン以外の楽器を用いないようにした。…
※「ビクトリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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