グレゴリウス(読み)ぐれごりうす(英語表記)Gregorius Turonensis

日本大百科全書(ニッポニカ) 「グレゴリウス」の意味・わかりやすい解説

グレゴリウス(7世)
ぐれごりうす
Gregorius Ⅶ
(1010/1020―1085)

ローマ教皇(在位1073~1085)。グレゴリウス改革とよばれる中世の大教会改革を指導し、教皇権の最盛期を開いた。俗名ヒルデブラントHildebrand。北イタリアのトスカナ地方ソアナ生まれ。1049年以後教皇座にあって教会政治、改革に参与、レオ9世をはじめ歴代諸教皇を補佐し頭角を現す。登位後も東方教会合同を計画する一方、聖職売買や聖職者妻帯を禁じ、1075年には俗人叙任禁止を決定するなど教皇権の高揚と教会の改革を推進。ついでミラノ大司教任命をめぐりドイツ王(神聖ローマ皇帝)ハインリヒ4世と対立、1076年王の教皇罷免の宣言に対し、逆に王破門で応酬し、皇帝権との争い(聖職叙任権闘争)に突入、1077年カノッサで王を屈服させた(カノッサ事件)。しかしその後、ハインリヒは勢力を挽回(ばんかい)、教皇は、王を再度破門(1080)したが、王がこれを無視し武力でローマを攻撃したため、サレルノに逃れ、そこで憤死した。死に際し「正義を愛し、不正を憎んだ。それゆえ亡命のうちに死ぬ」と語ったと伝えられる。彼の改革理念は、教会の倫理的刷新のほか、教皇首位権の確立、教会の俗人支配からの解放、俗権に対する教会の優位などにあったが、これらの主張の要点は彼の「教皇教書」(1075)に簡潔に示されている。

[野口洋二 2017年11月17日]


グレゴリウス(1世)
ぐれごりうす
Gregorius Ⅰ
(540ころ―604)

ローマ教皇(在位590~604)。聖人。西方の四大教会博士の一人。大教皇Magnusと称される。ローマ市の名門に生まれ、若くしてローマ市総督となったが、まもなく修道生活に入る。コンスタンティノープル駐在教皇使節、教皇顧問などを歴任後、意に反して教皇に選出され、最初の修道者出身の教皇となった。登位後は、ランゴバルド勢力の侵攻に対し、弱体化したビザンツ帝権にかわってローマ市および中部イタリアのローマ系住民の保護者の役を担った。アフリカ、西ゴート王国、ランゴバルド王国フランク王国の諸教会を教皇座に緊密に結び付けようと努め、ケント王国に宣教師団を派遣してアングロ・サクソンの教化に先鞭(せんべん)をつけた。これらの業績によってグレゴリウスを「最初の中世的教皇」とよぶ人もいる。『司牧規則』『道徳論』『対話』をはじめ膨大な著作、説教、書簡があり、近代に至るまで西方キリスト教世界の精神に大きな影響を与えた。典礼改革を推進して「グレゴリウス典礼書」の形成に寄与し、また教会音楽の改良にも力を入れて、いわゆる「グレゴリオ聖歌」の形成過程に一定の役割を果たした。

[出崎澄男 2017年11月17日]


グレゴリウス(歴史叙述者)
ぐれごりうす
Gregorius Turonensis
(538から540?―593/594?)

トゥールの司教、歴史叙述者。ガロ・ローマ系セナトール貴族の家門の生まれ。573年からトゥール司教に任命され、メロビング王国の内乱を身をもって経験した。若干の聖者伝のほか『歴史・十巻』を書き残した。一般に『フランク王国史』とよばれる書物で、メロビング時代のフランク王国の歴史の主要史料となっている。第1、2巻は天地創造から511年のクロービス1世の死までを、第3、4巻はグレゴリウスのトゥール司教就任後まもなくの575年ごろまでを、第5~10巻で彼の死のすこし前の591年までを取り扱う。多くの逸話を交えながら、文法的にかなり崩れた当時の卑俗ラテン語で書かれている。

[平城照介 2017年11月17日]

『兼岩正夫・臺幸夫訳『歴史・十巻』全2巻(1975~1977・東海大学出版会)』


グレゴリウス(13世)
ぐれごりうす
Gregorius ⅩⅢ
(1502―1585)

ローマ教皇(在位1572~85)。北イタリアのボローニャ出身。16世紀の反宗教改革運動と教会の内部改革を推進した。大学教授の経歴をもち、トリエント公会議法令の遂行に努めて、カトリック教会の教育制度を充実させ、多くの学院の創設に尽力した。従来のユリウス暦の不備を補うため委員会を設けてこれを修正させ、1582年新しい暦(グレゴリオ暦)に改めさせた。各国宮廷に特使を派遣する教皇特使制度の創始者としても知られる。なお、85年日本の天正(てんしょう)遣欧使節を接見した。

[磯見辰典]

『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史5』(1981・講談社)』


グレゴリウス(2世)
ぐれごりうす
Gregorius Ⅱ
(669―731)

ローマ教皇、聖人。東方世界とのイコノクラスム(聖画像論争)が高まった時代に在位した(715~731)。ビザンティン皇帝レオ3世(在位717~741)の聖画像破壊の強硬な態度に反対し、聖画像使用の正当性を主張したが、その結果、東西世界の溝はいよいよ深まることになった。712年、教皇はブリタニアの宣教師ウィンフリードにボニファティウスの名を与え、722年さらに彼を司教に任命して、フランク王国の布教をゆだねた。このことは結果として、のちに教皇ザカリアス(在位741~752)がボニファティウスを介してフランク王国の小ピピンの即位を承認し、カロリング王朝を成立させるという世界史的事件をもたらすことになる。

[磯見辰典]

『鈴木宣明著『ローマ教皇史』(教育社歴史新書)』『H・テュヒレ他著、上智大学中世思想研究所編・訳『キリスト教史3』(1981・講談社)』


グレゴリウス(叙事詩)
ぐれごりうす
Gregorius

ドイツ中世の詩人ハルトマン・フォン・アウエの叙事詩。1190年ごろの作。王家の兄妹の間に生まれたグレゴリウスは、生後ただちに海に流され、僧院に拾われて聖職者としての教育を受ける。ある日自らの素性を知った彼は僧院を去り騎士として旅に出る。たどり着いた国が母の統(す)べる国とも知らず、その危難を救い、生みの母である女王と結婚する。やがて二重の近親相姦の罪が明らかになったとき、彼は世を捨て、海中の孤岩で17年間贖罪(しょくざい)を続ける。神はこの行いをよみし給い、グレゴリウスはローマ教皇に選ばれる。近親相姦説話をもとに、聖者譚(たん)と騎士物語双方の魅力を備えた秀作である。トーマス・マンの『選ばれし人』はこの作品を素材としている。

[中島悠爾]

『中島悠爾訳『グレゴーリウス』(『ハルトマン作品集』所収・1982・郁文堂)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「グレゴリウス」の意味・わかりやすい解説

グレゴリウス[ツール]
Gregorius Turonensis

[生]538/539.11.30. クレルモンフェラン
[没]594. ツール
メロビング朝時代のフランク王国の歴史家,聖職者。本名 Georgius Florentius。聖人。クレルモンフェランの参事会議員の家に生まれ,宗教詩人 F.ウェナンティウスらフランク王国有数の人物との交際があり,573年ジゲベルト1世王によりツールの司教とされた。 575年王が暗殺され,ヒルペリヒ1世が王となると,政治的にも宗教的にも王と激しく対立したが,王の死後その後継者とは平穏を保ち,聖マルティヌス大聖堂の再建をはじめとして,多くの聖堂を建設し,教区民を重税から守った。主著『フランク史』 Historia Francorumは初期メロビング朝についてのきわめて重要な資料である。その他ガリア人殉教者,聖ユリアヌス,聖マルティヌスら多くの聖者の伝記を書いた。

グレゴリウス[ニッサ]
Gregorius Nyssenus

[生]330頃
[没]395頃
聖人。バシレイオスの弟。兄およびナジアンズのグレゴリウスとともにカッパドキア3教父の一人。初め修辞学で身を立て結婚したが,カエサレア主座司教であった兄に請われて 371年ニッサの司教となる。政治的にしばしば賢明さを欠いたが,正統信仰を守るうえでは,コンスタンチノープル公会議で重要な役割を果すなど功績は大きい。晩年にはたびたび宮廷を訪問,皇族の女性たちに教えた。本質 (ウーシア) と基質 (ヒュポスタシス) との神学的相違を規定して三位一体論に貢献。新プラトン主義やオリゲネスの影響を受け,神の像としての人間が永遠の世界に属し,神に類似する存在であることを説いた。万人救済論的信仰をもち,教会人の思索の自由を強調した。祝日1月 10日,3月9日。

グレゴリウス[ナジアンズ]
Gregorius of Nazianzus

[生]330頃.カッパドキア,ナジアンズ近郊
[没]389頃.カッパドキア,ナジアンズ近郊
聖人。東方の四大博士,カッパドキアの3教父の一人。バシレイオスの学友。司教であった父を助けるため 361年頃司祭となり,名説教家として父の教区ナジアンズで信徒を指導した。 378年頃コンスタンチノープルに召されて同地の正統教会を再建,その司教となったが,辞して帰郷した。アリウス主義を反駁,ニカイア的信仰表明の確立に尽力,アポリナリウス派に対してはキリストの人性を擁護した。祝日1月 25日,5月9日。

グレゴリウス[リミニ]
Gregorius de Rimini

[生]?
[没]1358
スコラ哲学者。アウグスチヌス隠修士会士で,1357年同総会長。 41年頃よりパリで教えた。神学では予定説で著名であるが,哲学では A.アウグスチヌスに立脚して W.オッカムを融合した独自の認識論を展開した。

グレゴリウス[バレンシア]
Gregorius a Vallencia

[生]1549.3. バレンシア
[没]1603.4.25. ナポリ
スペインの神学者。イエズス会士。ディリンゲン,インゴルシュタット,ローマで教え,スアレス学派をドイツにもたらし,近世ドイツの哲学や神学の展開のうえに大きな影響を及ぼし,学問的対抗宗教改革運動の先駆となった。

グレゴリウス
Gregorius, Illuminator

[生]240頃
[没]332頃.アルメニア
アルメニアの使徒,啓蒙者のグレゴリウスといわれる。聖人。カッパドキアから故国アルメニアへ帰り,国王チリダテス3世を改宗させ,303年頃アルメニアをキリスト教国とした。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報