改訂新版 世界大百科事典 「紀年論」の意味・わかりやすい解説
紀年論 (きねんろん)
《日本書紀》の紀年および《古事記》の天皇崩年干支にかんする議論。《日本書紀》の紀年についての疑問は江戸時代にも提出されていたが,学問的手続をもってこれを論じたのは明治期の那珂通世(なかみちよ)である。神功紀,応神紀の紀年は両紀に引用された百済史料《百済記》と同じ干支ながら,120年の差があることから,両紀の紀年が120年(干支2運)くりあげられていることを那珂は論証した(今日,この干支2運くりあげの紀年操作は神功皇后を卑弥呼に擬定するためと理解されている)。さらに那珂はいわゆる神武紀元の設定を讖緯(しんい)説の辛酉革命の考えから説明した。那珂は暦法上の周期として1蔀(ほう)を21元=1260年と算出して,推古9年(601)から1260年さかのぼった辛酉年を神武天皇即位の年と設定したと論じた(1蔀を1320年と算出する説もある)。このような神武紀元の設定によって《日本書紀》の各天皇紀年がひきのばされ,天皇の異常な長寿などの不合理がもたらされたとするのが那珂説の概容である。那珂によって批判された《日本書紀》の紀年にかわって注目されたのは《古事記》にみえる天皇の崩年干支である。というのは,この干支をもってする干支紀年は,各天皇の即位年からの年数をもってする《日本書紀》の即位紀年法よりも古いと考えられるからである。したがって那珂説で得られた神功,応神朝の年代を定点に各崩年干支を配分,倭の五王の比定とも勘案して天皇の在位年数を推定するのが,その後の紀年論の主流となった。《古事記》の崩年干支が崇神天皇記から始まることは,崇神天皇を最初の実在した天皇とみる説の論拠となった。また崩年干支は景行,垂仁,安康,清寧,顕宗,仁賢,武烈,欽明,宣化の各天皇記には存在しない。このことから末松保和は崩年干支を各天皇記から切りはなして一連の史料群と考えたが,水野祐は逆に崩年干支の存否をもって天皇の実在・非実在の論拠とし,有名な三王朝交替説を提唱した。以上のように《日本書紀》の紀年よりも古く,また信じられてきた《古事記》崩年干支も,倭の五王の比定年代と必ずしも整合せず,また欽明天皇に崩年干支がないことからなお史料批判を要するものである。
→王朝交替論 →記紀批判
執筆者:川口 勝康
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報