紀男麻呂(読み)きの おまろ

デジタル版 日本人名大辞典+Plus「紀男麻呂」の解説

紀男麻呂 きの-おまろ

?-? 6世紀後半の武人
欽明(きんめい)天皇23年(562)大将軍として新羅(しらぎ)(朝鮮)に派遣され,新羅軍をやぶる。用明天皇2年には蘇我馬子(そがの-うまこ)にしたがい,物部守屋(もののべの-もりや)を討つ。崇峻(すしゅん)天皇4年任那(みまな)再興のため筑紫(つくし)まで出陣したが,天皇暗殺事件がおきたため推古天皇3年都にもどった。

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精選版 日本国語大辞典「紀男麻呂」の解説

き‐の‐おまろ【紀男麻呂】

大和時代後期の武将。欽明天皇二三年(五六二)新羅(しらぎ)に侵された任那(みまな)回復のために、大将軍として渡海。のち、蘇我馬子に従って、物部守屋を攻める。生没年未詳。

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世界大百科事典 第2版「紀男麻呂」の解説

きのおまろ【紀男麻呂】

6世紀後期の武将。生没年不詳。562年(欽明23),任那官家を滅ぼした新羅を問責する軍がおこされたとき,大将軍として出征。哆唎(たり)より任那に出撃したが,機密の文書を奪われ,新羅軍の急襲をうけた。副将河辺瓊缶(にえ)は敗れて捕らえられたが,男麻呂はよく敵を撃破して撤退した。のち蘇我・物部両氏の抗争には馬子に従って守屋討伐軍に加わる。591年(崇峻4)巨勢猿(こせのさる),大伴嚙(くい),葛城烏奈良(おなら)とともに任那再興の大将軍に任じられ,2万余の軍を率いて筑紫に進んだが,翌年天皇弑逆の異変が起こり,結局渡海せず,595年(推古3)筑紫より帰った。

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