日本歴史地名大系 「細谷郷・細谷村」の解説
細谷郷・細谷村
ほそやごう・ほそやむら
鎌倉時代からみえる地名。現細谷を遺称地とする。
〔正検取帳からみた細谷郷〕
弘長三年(一二六三)一月に地頭代と領家使が立会って作成した原田庄細谷村正検取帳(案、東寺百合文書、以下断りのない限り同文書)が初見。この帳簿によると細谷村は総田数四七町七段中で、ここから道溝・河成・山成・不作・畠成を差引くと見作田は三七町四段四丈となる。見作田は古作・年荒・古新・当新の四種類から構成され、年貢率は古作・年荒で一段につき五斗、古新で三斗五升、当新で二斗五升。年荒は耕作が放棄されていた古い開発田を再開発したものだろう。古新・当新で年貢率が抑えられているのは開発奨励のためで、近年の開発になる当新が見作田の五割以上を占めている。見作田から除田六町八段三丈中を引いた残りの三〇町六段中が年貢のかかる定得田で、年貢の基本部分をなす「分官米」は一〇二石二斗八升五合。これに古作・年荒に課される段別五升の段米、定得田に課される段別一升の勘料米と段別二升の小段米、領家方預所の直営田に課される段別一石六斗の御佃米、郷司の直営田に課される段別七斗七升八合四勺の郷司正作米が加算され、年貢総額は一三四石一斗三升八合四勺となる。また除田の項目からは村落生活を知ることができる。本免の設定された東西二つの宮は村落結合と信仰の中心とみられ、宮では神楽が催されたので、その費用をまかなう神楽田が設定されていた。開発に伴って
〔地頭原氏と京都東寺の対立〕
永仁三年(一二九五)九月九日の関東下知状案によれば、鎌倉幕府は細谷郷地頭原兼泰の主張をしりぞけて、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報