細谷村(読み)ほそやむら

日本歴史地名大系 「細谷村」の解説

細谷村
ほそやむら

[現在地名]水戸市城東じようとう一―五丁目・若宮わかみや一―二丁目

水戸城の東方、曲流する那珂川の右岸にある。南は下町したまちに接し、北は那珂川を隔てて枝川えだかわ(現勝田市)

加藤寛斎随筆」に「細谷 古名星矢」と記す。建久七年(一一九六)の吉田社領家小槻某預所三善清信下文写(吉田神社文書)には「吉田神領内細谷」とあり、応永一二年(一四〇五)の吉田郷等田地検注目録写(吉田薬王院文書)に「安貞二年田検注百姓名並目録事」として「細谷村分」、正応二年(一二八九)の吉田社領家小槻某下文写(吉田神社文書)に「常陸国吉田・河崎等郷并細谷□□」、応永二八年の吉田郡諸郷田数并年貢注文写(吉田薬王院文書)に「細谷五丁一段小」等とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「七百三拾三石四斗四升 細谷村」とある。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]立科町桐原きりはら

芦田あした山部やまべ藤沢ふじさわ塩沢新田しおざわしんでんの諸村に囲まれた狭小な村。三面峡谷に囲まれているゆえの村名と伝える。

「長野県町村誌」では、天正一七年(一五八九)望月もちづき町の金井家文書に「細矢の甫町」「細矢尻の田」とあると伝えるが、歴史の表面に現れることの少ない村で、「旧版北佐久郡志」では「芦田・山部・塩沢・細谷・茂田井五箇組は足利時代よりほとんど一村の観あり」としている。寛永元年(一六二四)八月の松平五郎新知郷村引渡証文(清水貞夫氏蔵)に「細屋村」として石高三一石余の村。

この辺り一帯は近世初頭に開削された塩沢堰によって急速に新田化し、耕地が拡大した地域であるが、寛文一〇年(一六七〇)の村高一六七石余(「信州小諸領高諸浮役帳」北佐久郡志)に対して、元禄一六年(一七〇三)一六二石余(「牧野康重新知郷村引渡証文」牧野一郎氏蔵)と減少の傾向さえある。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]太田市細谷・西新町にししんまち

へび川の右岸に位置し、地勢は平坦で、対岸東は岩瀬川いわせがわ村、北は由良ゆら村、西は西野谷にしのや村・上田島かみたじま村。応永一一年(一四〇四)四月七日の新田庄内惣領知行分注文写(正木文書)に「細谷村由良郷内」とあり、一五世紀半ばのものと思われる岩松持国知行分注文(同文書)には「細谷郷」とある。年未詳三月一〇日了泉書状(同文書)で、了泉は祖母より譲られた地として「細谷村」の領有を岩松能登守に主張している。寛文二年(一六六二)の知行割帳(金谷文書)では「世田郡新田庄細谷村」とあり、高一千五六七石余で田方七〇町六反余・畑方六三町余(うち萩畑三町余・屋敷四町余)で、大坂定番の安部信盛領・旗本筒井領などの六給。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]梁川町細谷

関波せきなみ村の西に位置し、北は新田につた村、西は金原田かなはらだ(現保原町)。大永五年(一五二五)一一月一一日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)伊達東根だてひがしね「ほそやの郷」とみえ、田手石見の太方(未亡人)に田手氏より購入した同郷のうち一町三反の田(年貢二貫五〇〇文)などが安堵されている。天文七年(一五三八)の段銭古帳でも伊達東根のうちとして「ほそや」とみえ、段銭は九貫三一五文。

細谷村
ほそだにむら

[現在地名]浜田市三階町さんがいちよう

浜田川の支流細谷川が流れ、南は長見ながみ村、西は内田うちだ村、北は原井はらい村・黒川くろかわ村。中世は小石見こいわみ郷の内とみられる。文明一二年(一四八〇)一〇月二六日の三隅貞信安堵知行注文写(岡本家文書)によると、岡本宗定知行分一一ヵ所のなかに「ほそ谷名」がみえ、大祭天石門彦おおまつりあめのいわとひこ神社(三宮神社)の神主岡本氏の所領であった。永正一二年(一五一五)には小石見郷内の土豪肥塚氏が「ほそ谷の内ミやこかい地弐段」など都合五段(銭二貫文定)を宛行われている(同年三月三日「西尾宗茂打渡状」肥塚家文書)。細谷の内として名目良なめら谷、大野ヶ原(青野原とも)・若杉屋敷・大ゑき・滝之上・滝之下などの地名が知られる。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]いわき市四倉町細谷よつくらまちほそや

原高野はらごや川北岸の海岸部にあり、南対岸は原高野村、北は新田にいだ村、西は大森おおもり村。磐城郡に属した。近世の領主の変遷は磐城平藩領から延享四年(一七四七)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高九三石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)には村名がみえない。正保郷帳では畑方のみで高八一石余。元禄郷帳では細谷村の高二六八石余、民野町たみのまち新田の高五二七石余。天保郷帳では「古者 細谷村・大森村・民野町新田参ケ村」とみえるが、大森村は独立村として扱われる。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]板倉町細谷

西と南は大荷場おおにんば村、東ははなれ村、北は北大島きたおおしま(現館林市)。「邑楽郡町村誌材料」によると、往古は伊谷田いやだ村細谷組といい、元和三年(一六一七)の榊原検地の時に分郷したとされる。しかし寛文郷帳は伊谷田村とあり、分郷は天和二年(一六八二)と思われる。元禄郷帳では高一千二〇七石四斗余。文政三年(一八二〇)の夫食願(荻野文書)によれば、村高一千二〇七石二斗余、総人別五二九人のうち約半数の二五八人が夫食を願出ている。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]石橋町細谷

橋本はしもと村の南、姿すがた川の右岸に立地し、西は藤井ふじい(現壬生町)。天正一八年(一五九〇)九月二一日の結城秀康朱印状(多賀谷文書)によれば、藤井のうち細井ほそい村・橋本村四八二石余などが多賀谷政広に宛行われているが、細井村は当地とみられる。慶安郷帳に村名がみえ、田一〇四石余・畑七一石余で壬生藩領。寛文四年(一六六四)の同藩領知目録にも村名が記される。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]掛川市細谷

南流する原野谷はらのや川の東岸にあり、西は吉岡よしおか村。東の家代いえしろ村からの秋葉街道が村内を通る。中世の原田はらだ庄細谷郷の遺称地。正保郷帳に村名がみえ、田方八三六石余・畑方七二石余、掛川藩領、ほかに多法寺(現廃寺の曹洞宗大法庵であろう)領四石がある。元禄郷帳では高九四六石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。享保郷村高帳では旗本曾我・杉浦の二家の相給。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]羽黒町細谷

赤川あかがわ村の北東に位置する。細屋とも記した。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録によれば高二八八石余。寛永三年庄内高辻帳では高七三三石余。弍郡詳記では高七一九石余、免四ツ五分、家数二九。正保四年(一六四七)の庄内三郡左沢浮役帳(酒井家文書)では東山札米三俵一斗を上納している。万治二年(一六五九)には細屋谷地の新田開発が禁じられている(大泉紀年)

細谷村
ほそやむら

[現在地名]一関市川辺かわべ新町しんまち

北上川右岸の平地にあり、東は樋口ひぐち村。地名は、藤原秀衡のとき、橋に化けて人々を悩ませる狐を弓の名手に射させたところ、狐の首を射落した矢が落ちたことに由来するとされる。近世初頭まで南の中里なかざと村の端郷であったが、寛永検地後一村扱いとなったといわれる(安永風土記)。正保郷帳に村名がみえ、田八貫一一三文・畑一五貫二五二文、ほかに新田九六九文があり、水損と注記される。「安永風土記」では田八貫七三〇文・畑二六貫六一九文、一円が蔵入地。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]上山市細谷

北は阿弥陀地あみだち村に接し、地名は細長い谷地(湿地)の意。正保郷帳では田方二六九石余・畑方二二六石余。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(三浦文庫)では高五二一石余、うち新田二五石余、反別は田二八町七反余・畑二六町二反余で、銭二貫八五文・薪九一駄が課された。ほかに鳥運上六〇〇文がある。

細谷村
ほそたにむら

[現在地名]和知町字細谷

上粟野かみあわの村の南辺にある小さな山村。村の西部を上和知川が北東より南西に流れる。西岸を仏主ほどす村への道が通り、川と道の両側に耕地が連なる。集落は東側山裾に階段状に並び周囲はすべて山に囲まれる。東は仏主村・上乙見かみおとみ村、南から西は下粟野村、西は西河内にしかわち村。

細谷村
ほそやむら

[現在地名]双葉町細谷

太平洋に面して高さ二〇メートル以上の断崖が続き、南は夫沢おつとざわ(現大熊町)、北は郡山こおりやま村。かつては郡山村南迫みなみさく新田で、明暦二年(一六五六)分村し、同年の検地高一四六石余で、ほとんどが郡山村住民の耕地であった(相馬藩政史)

細谷村
ほそやむら

[現在地名]八郷町細谷

北は須釜すがま村・小幡おばた村、南は上青柳かみあおやぎ村。江戸初期に下総関宿藩領(寛文朱印留)、貞享四年(一六八七)から土浦藩領となり(土浦市史)、のち旗本領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android