日本大百科全書(ニッポニカ) 「総合制中等学校」の意味・わかりやすい解説
総合制中等学校
そうごうせいちゅうとうがっこう
comprehensive secondary school
19世紀中葉に成立した中等教育は、伝統も目的も対象も異なるいくつかの学校から成り立っていた。すなわち、エリートに古典人文教養を授け大学進学の準備教育を行う学校(イギリスのグラマー・スクール、フランスのリセ、ドイツのギムナジウムなど)、工業化社会の進展に対応する中級職業人の養成を行う学校(イギリスのテクニカル・スクール、フランスの技術教育コレージュ、ドイツのレアールシューレやミッテルシューレなど)、さらに小学校教育を補完し実生活上の知識・技能を授ける一般大衆用の学校(イギリスのモダーン・スクール、フランスの高等小学校や小学校補習科、ドイツの民衆学校高等科やハウプトシューレなど)といった三本立て制度が各国にみられた。この制度は初等教育における複線型を前提としていたが、第一次世界大戦後の統一学校運動によって初等教育の単線化が実現すると、第二次大戦後、「完全な中等教育をすべての者に」の要求に見合う中等教育の一本化が改革課題となった。その結果、三本立て制度のすべての機能を一種の中等教育で果たそうとする仕組みがつくられた。それが総合制学校(イギリスのコンプリヘンシブ・スクール、旧西ドイツのゲザームトシューレ)である。現在、イギリスでは中等学校の約8割が総合制に移行し、フランスでは前期中等教育を全員就学のコレージュに一本化し、後期中等教育も学校間の共通性を強め、旧西ドイツではゲザームトシューレの実験が広まった。
わが国では、戦後教育改革により、第二次大戦前の中学校、高等女学校、実業学校、青年学校、小学校高等科を、アメリカのジュニア、シニアの総合制ハイ・スクールに倣って、中学校、高等学校に単線化した。高等学校の総合制は、小学区制や男女共学制とともに、新制高校の三原則とよばれるほど重視された。しかし、1955年(昭和30)前後から、高等学校の種別化と学科の細分化が進められ、受験競争を激化させる要因の一つとなった。
総合制中等学校は学制の民主化にとって必要不可欠である。しかし一方、生徒の能力・適性に合致し、中等後の進路に的確に準備させるということも中等教育の重要な目標である。中等教育においてこの統合と分化をいかに調和させるかは世界共通の課題である。中等教育を前期と後期に区分し、前期は共通教育期とし、後期は人間教育としての共通性を維持しながら個性的教育を充実させる方向にある。学校やコースの構造を柔軟にしていくことから、新たな総合制が模索されよう。
[桑原敏明]