日本歴史地名大系 「置賜郡」の解説
置賜郡
おきたまぐん
〔古代〕
「日本書紀」持統天皇三年(六八九)一月二日条によれば「務大肆陸奥国の優曇郡の城養の蝦夷脂利古が男、麻呂と鉄折」の二人が出家して仏門に入ることを許されている。この「優曇郡」は「うきたま」とよんで当郡にあてられ、当時すでに陸奥国の一郡として建置され律令制下に組込まれていた。和銅五年(七一二)九月二三日出羽国が新たに置かれ、翌一〇月一日、陸奥国から当郡および最上郡の二郡を割き、出羽国へと所管を移しているが(「続日本紀」同年一〇月一日条)、同書の霊亀二年(七一六)九月二三日条に「以陸奥国置賜最上二郡及信濃・上野・越前・越後四国百姓各百戸、隷出羽国焉」とみえることから、出羽国への移管は和銅五年には所管替えの方針を示し、実施されたのが霊亀二年以降であると理解する説もある。延暦一一年(七九二)一一月二八日には「平鹿・最上・置賜」三郡の狄田租が永免となっているが(類聚国史)、これは宝亀(七七〇―七八一)・延暦年中の蝦夷反乱に関連した措置であったとみられる。
「和名抄」高山寺本によれば最賜(東急本では置賜)・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報