置賜郡(読み)おきたまぐん

日本歴史地名大系 「置賜郡」の解説

置賜郡
おきたまぐん

和名抄」高山寺本では「最賜」に作る。東急本・刊本には「於伊太三」、「拾芥抄」には「オイタミ」の訓があるが、九条本「延喜式」民部省では「オイタム」と訓じ、一四世紀末頃に書写されたと考えられる大般若経写経巻第五二五奥書(立石寺文書)に「羽州置民郡屋代荘」とあるのをはじめ、中世には置民の用字が散見する。また「節用集」文明本では「おきたま」、同易林本では「おいたま」と訓じている。県の南部を占め、現在の置賜地区とほぼ合致する。古代には東・南を陸奥国、西は越後国、北は最上郡と接していた。しかし近世初期に、最上・村山両郡の呼称が入れ替わって以降、北は村山郡と接した。

〔古代〕

「日本書紀」持統天皇三年(六八九)一月二日条によれば「務大肆陸奥国の優曇郡の城養の蝦夷脂利古が男、麻呂と鉄折」の二人が出家して仏門に入ることを許されている。この「優曇郡」は「うきたま」とよんで当郡にあてられ、当時すでに陸奥国の一郡として建置され律令制下に組込まれていた。和銅五年(七一二)九月二三日出羽国が新たに置かれ、翌一〇月一日、陸奥国から当郡および最上郡の二郡を割き、出羽国へと所管を移しているが(「続日本紀」同年一〇月一日条)、同書の霊亀二年(七一六)九月二三日条に「以陸奥国置賜最上二郡及信濃・上野・越前・越後四国百姓各百戸、隷出羽国焉」とみえることから、出羽国への移管は和銅五年には所管替えの方針を示し、実施されたのが霊亀二年以降であると理解する説もある。延暦一一年(七九二)一一月二八日には「平鹿・最上・置賜」三郡の狄田租が永免となっているが(類聚国史)、これは宝亀(七七〇―七八一)・延暦年中の蝦夷反乱に関連した措置であったとみられる。

「和名抄」高山寺本によれば最賜(東急本では置賜)広瀬ひろせ屋代やしろ赤井あかい宮城みやぎ長井ながいの六郷で構成され、東急本・刊本ではこれに余戸あまるべ郷が加わる。郡衙所在地として従来は現東置賜郡高畠たかはた小郡山こごりやま、南陽市郡山こおりやま周辺などが有力な比定地であったが、東置賜郡川西かわにし小松こまつ道伝どうでん遺跡が倉庫を含む建物群や出土木簡から九世紀後半の郡衙跡と推定され、小郡山を古郡山の転じたものとして、小郡山から郡山、さらに道伝と郡衙が移転したとみる説もある。郡内の古墳群・条里遺構・火葬墳墓群などの分布状況からみても、郡の中心が屋代川流域(小郡山)から吉野よしの川流域(郡山)、またいぬ川流域(小松)と移転したと考えることは妥当性がある。平安後期から鎌倉期にかけて郡内東部に成島なるしま庄・北条ほうじよう庄・屋代庄の三庄が成立、それ以外は国衙領として残ったと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報