美々津町(読み)みみつちよう

日本歴史地名大系 「美々津町」の解説

美々津町
みみつちよう

[現在地名]日向市美々津町

上別府かみのびゆう村の東端部を占め、耳川河口の美々津(耳津)湊を中心に古くから廻船業が繁栄した。細島ほそしま湊と並んで日向国の重要な湊町。神武天皇東征の際の出発湊であるとの伝説をもつ。弘治二年(一五五六)六月吉日の土田帳写(予章館文書)に「ミヽ」とみえ、立岩大明神(現立磐神社)があったことが記される。天正一二年(一五八四)五月二一日、肝付兼寛は上洛に際して「美(津脱カ)細島」から出船の予定であると宮崎地頭である上井覚兼に伝えている(上井覚兼日記)。「上井覚兼日記」同一三年三月一一日条に「美々津町」とみえ、地下衆は「町衆」ともよばれ当時湊町が形成されていた。宮崎城主として覚兼はしばしばこの地を訪れ、地下衆の歓待を受けている。同一四年二月一四日、覚兼は島津義久の豊後出陣の準備のため、御座船の水主五〇人を美々津・細島から出させ、宿を塩見しおみとするための準備を始めている(同日記)

美々津町は江戸時代を通じて領知目録上では上別府村に含まれた。耳川河口南岸から豊後街道沿いに南に延びるなか町筋を中心に、北浜きたはま町・石並いしなみ町からなる。石並町は中町筋の南、石並川北岸までに美々津大波被害のつど屋敷地を南に移して形成された。当町には高鍋藩から遣わされた番代が置かれ、その下に代官(二名)・蔵方(三名)・足軽(一〇余名)、遠見番所役人(六名)・美々津津口番人(数名)、余瀬番人(数名)などが配され、町政および美々津湊出入船舶全体を取締った。番代は番頭とも称し、初め二名で二〇人扶持であったが、のち一名で、役料一〇〇石、享保一八年(一七三三)からは一年任期で交替した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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