林屋辰三郎が1950年に〈町衆の成立〉と題する論文で使用した歴史概念。林屋説によると,応仁・文明の乱後,京都住民の日常生活の前面に出てきた地域共同体を〈町(まち)〉といい,〈まち〉は〈街路を挟む二つの頰(つら)〉を指し,そこで生活する住民を〈町衆(まちしゆう)〉という。林屋の町衆概念の要点は,(1)町衆は応仁・文明の乱後に成立してくる生活共同体である〈町〉の構成員であり,(2)〈町〉は〈街路を挟む二つの頰〉であること,(3)応仁・文明の乱後の史料に〈町衆〉の用語が頻出してくること,(4)町衆は自己の責任で自己の〈町〉を防衛すること,(5)町衆の中核は酒屋,土倉などの高利貸業者であり,(6)酒屋,土倉などの上層町衆は京都近郊農民を収奪し,土一揆と対立し,(7)〈町〉の連合組織である〈町組〉が結成され,その指導的位置を上層町衆が占める,などである。林屋説に基づいて高校日本史の教科書や参考書,辞典類は〈町衆〉を〈まちしゅう〉としている。
しかし,16世紀初期の山科言継(ときつぐ)の日記《言継卿記》には,〈町〉は〈ちゃう〉と呼称され,文明本《節用集》や《日葡辞書》は〈町衆〉を〈チャウシュ〉としている。これは林屋の〈街路を挟む二つの頰〉からなる生活共同体の〈町〉は,〈まち〉ではなく〈ちょう〉(町(ちよう))であり,〈町〉の構成員も〈まちしゅう〉ではなく〈ちょうしゅう〉であることを示している。〈ちょう〉は現在の京都の町内(ちようない)に連なるもので,例えば京都旧市街の京都市中京区柳馬場通三条下ル槌屋町という地名表示の槌屋町は〈つちやまち〉でなく,〈つちやちょう〉である。街路名は室町(むろまち),新町(しんまち),御幸町(ごこまち)など〈まち〉で呼ばれるが,生活共同体の〈町〉は〈まち〉ではない。生活共同体としての〈町〉は,和泉堺,摂津平野,近江堅田などの中世都市でも〈ちょう〉である。
町衆を〈まちしゅう〉と呼称する場合,江戸時代の村の衆,里の衆,浦の衆に対する都市民を指す。西鶴は《好色一代女》では〈大坂,堺の町衆(まちしゆ)〉といい,《日本永代蔵》での〈町衆(ちやうしゆ)に袴きせて,旧里を切て子をひとり捨ける〉と明確に区別している。〈まちしゅう〉は都市民という意味をもち,〈ちょうしゅう〉は生活共同体である町内の構成員を指す。したがって,林屋説の〈町衆〉概念と歴史的呼称,歴史用語とを一致させれば,〈まちしゅう〉ではなく,〈ちょうしゅう〉でなくてはならない。
執筆者:仲村 研
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「ちょうのしゅう」とも読み、町人(ちょうにん)ともいう。日本中世の都市の住民の呼称。京都では、通りのことを「まち」、両側町(りょうがわちょう)の町を「ちょう」というので、町衆は、「まちしゅう」とよぶよりも「ちょうしゅう」とよぶのが一般的である。
鎌倉末期から南北朝期にかけて京都の商業区域では、道路を挟んで両側の店舗が結束して、両側町の自治的な「町(ちょう)」を構成した。それは戦国期には上部組織である市政機構として町組(ちょうぐみ)を結成し、上京(かみぎょう)五町組、下京(しもぎょう)五町組、禁裏(きんり)六町などを成立させた。町衆とは、この自治を高めつつある市民をさす呼称で、周辺村落の農民が「西岡衆(にしおかしゅう)」「灰方(はいかた)衆」などとよばれたのに対し、「一条室町(いちじょうむろまち)衆」「禁裏六町衆」「立売四町(たてうりよんちょう)衆」などとよばれた。たとえば、『言継卿記(ときつぐきょうき)』には「町衆手負有之」などと記されている。京都以外の都市においても、1535年(天文4)の『石山本願寺(いしやまほんがんじ)日記』には、「依通路之儀、町衆連署させらると云々」とあり、寺内町(じないちょう)の町人をも町衆とよんでいる。
しかしながら、「町」という地縁的共同体の構成員としての資格を有するものとしての正式呼称は、「町衆」というより「町人」とよばれるほうが一般的で、これが近世の町人身分につながるものである。たとえば、1343年(興国4・康永2)の『祇園執行(ぎおんしぎょう)日記』には、三条町、七条町の定住店舗で営業する綿本座(わたほんざ)商人を「町人」とよんでいる。また、1419年(応永26)の洛中(らくちゅう)酒屋起請文(きしょうもん)(北野文書)では「町人」は「町」の世話役をさしている。すなわち、「町」構成員が輪番で世話役(月行事)を行うので、それも町人と称したわけである。町人資格は町内に家をもつことであった。町衆とは、公家(くげ)や寺社の貴族的僧侶(そうりょ)の日記に散見するもので、この町人を公家貴族などが包括的、一般的によんだ呼称である。
[脇田晴子]
『林屋辰三郎著『中世文化の基調』(1955・東京大学出版会)』▽『脇田晴子著『日本中世都市論』(1981・東京大学出版会)』
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中世末期の都市で成立した地縁的共同体である町(ちょう)の正規の構成員のこと。「まちしゅう」と読まれることが多いが,正しくは「ちょうしゅ」。近世の身分呼称である町人の原義にあたる。京都では応仁・文明の乱後に町が成立するが,町衆の用語もこの時期以降の史料に頻出するようになる。町の正規の構成員は町屋敷を所有することが条件とされたので,町衆の本質は,町屋敷を所有しさまざまな商業を営む商人資本といえる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
…これは南北朝の内乱以降に京都に出現し,応仁の乱の廃墟の中からあまねく成立する。この町(ちよう)共同体は中世自治都市の堺,平野,堅田などにも成立し,その構成員は一般の都市民という意味の町衆(まちしゆう)と異なり,町衆(ちようしゆう)と呼ばれた。町(まち)【仲村 研】。…
…林屋辰三郎が1950年に〈町衆の成立〉と題する論文で使用した歴史概念。林屋説によると,応仁・文明の乱後,京都住民の日常生活の前面に出てきた地域共同体を〈町(まち)〉といい,〈まち〉は〈街路を挟む二つの頰(つら)〉を指し,そこで生活する住民を〈町衆(まちしゆう)〉という。…
※「町衆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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