日本大百科全書(ニッポニカ) 「美努岡万墓誌」の意味・わかりやすい解説
美努岡万墓誌
みののおかまろのぼし
701年(大宝1)に遣唐使の一員として渡唐、帰国後、宮内省主殿寮(とのもりのつかさ)の長官に任ぜられた従(じゅ)五位下(げ)、美努岡万の墓誌。1872年(明治5)奈良県生駒(いこま)市萩原(はぎわら)字竜王の丘陵から出土。墓誌は鍛造の幅広い銅板(縦29.7センチメートル、横20.9センチメートル)の表面に縦横の罫線(けいせん)を刻し、1行17字詰、11行にわたって計176字の銘文を刻む。銘文中「天皇」の上には闕字(けつじ)の礼(れい)を施す。岡万は、『続日本紀(しょくにほんぎ)』霊亀(れいき)2年(716)正月壬午条にみえる美努連(むらじ)岡麻呂にあたり、河内(かわち)国(大阪府)若江郡を本貫とする三野(みの)(美努)県主(あがたぬし)の後裔(こうえい)で、662年(天智天皇1)に生まれ、小商監従七位下中宮小進(ちゅうぐうしょうじょう)として遣唐使に加わり、主殿寮長官を歴任して、728年(神亀5)67歳で没したことが知られる。国指定重要文化財。
[大脇 潔]