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日本古代の法典。唐の永徽律令(えいきりつれい)(651)、永徽律疏(りつそ)(653)を藍本(らんぽん)とする。文武(もんむ)天皇の即位(697)前後から、浄御原令(きよみはらりょう)および天武(てんむ)天皇の時代から編纂(へんさん)が進められていた律をもとにして新たな律令法典の編纂が開始された。編纂には撰令所が設置された。編纂は文武天皇の叔父の刑部(おさかべ)親王、中納言(ちゅうなごん)藤原不比等(ふひと)らを中心にして行われた。700年(文武天皇4)3月に令が完成し、翌701年3月大宝と建元し、位階(五位以上)と官制を新令に従って改正した。これが令の施行の開始である。六位以下の位階改正は5月に行われた。4月には親王以下官人に、6月には僧綱(そうごう)に、8月には諸国に対して令の講義が行われた。中央・地方の一般行政は6月から新令により執行された。日本で編纂された最初の律法典である大宝律は701年(大宝1)8月に完成し翌年2月に頒行された。ここに初めて令律二法典がそろったのである。
757年(天平宝字1)には養老(ようろう)年間(717~724)に撰修(せんしゅう)された養老律令が大宝律令にかわって施行された。なお、大宝律令・養老律令の名称は後代に付された学術用語である。養老令は、その官撰注釈書の『令義解(りょうのぎげ)』(833撰、834施行)と『令義解』の注釈書の『令集解(しゅうげ)』(9世紀後半または10世紀初頭撰)に30篇(ぺん)953条のなかの28篇904条が収載され、残りもほぼ復原されている。しかし、大宝令は、養老令の施行以後散逸してしまい、現在はその逸文が『令集解』を中心とした法制史料により断片的に復原されているにすぎない。律は、養老律(約500条)がその写本の伝存により約3分の1ほど知られるのに対して、大宝律は令と同様に散逸してしまい、養老律の散逸部分とともに断片的に逸文が復原されている。これらの大宝律令復原研究の成果によると、大宝律令は令の篇名が若干異なり、また要所において条文の内容に違いがあるものの、条文数・条文内容ともに基本的には養老律令と同様のものであったと考えられる。また唐律令とは基本構成は同じであるが、令は日本の実状にあわせてきわめて多くの条文において改変が施され、律も律に律疏を組み入れるという体裁の変更を行うとともに条文内容でも令と同様に改変が施されている。
[石上英一]
『井上光貞他編『日本思想大系3 律令』(1976・岩波書店)』▽『律令研究会編『訳註日本律令』全10巻(1976~91・東京堂出版)』▽『『新訂増補国史大系 令義解』(1968・吉川弘文館)』▽『『新訂増補国史大系 令集解』全4巻(1972・吉川弘文館)』
日本古代の法典。701年(大宝1)施行。律6巻,令11巻と伝えるが,いずれも現存せず編巻の状態は未詳。日本の律令法典の編纂は天智朝の近江令(おうみりよう)(律なし),天武朝の飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりよう)(律なく,唐律を准用したと推定されている),大宝律令,養老律令の4度にわたって行われたと考えられている。もっとも近江令は存在しなかったとする学説も有力だが,いずれにせよ法典の完成度からみれば,大宝律令はそれ以前のものにくらべ格段に整ったものであった。《続日本紀》の大宝元年(701)元日の記事に〈文物の儀ここに備われり〉といい,その数年後に造られた威奈大村(いなのおおむら)墓誌に〈大宝元年を以て律令はじめて定まる〉と記されているのは,当時の人々が大宝律令をもって本格的な律令法典の出現と意識していたことを示している。その編纂と施行について,従来は律・令とも701年から翌年にかけて,成るにしたがって施行されたと考えられていたが,最近では,令は700年(文武4)に完成しており,続いて成った律も701年に令とともに施行されたとする学説が有力になっている。これを編纂したのは刑部(おさかべ)親王(天武皇子),藤原不比等(ふひと)ら19名であった。当時の文化的水準からみて当然ではあるが,そのなかには渡来人一世あるいは渡来系氏族出身者が多い。この律令は757年(天平宝字1)まで施行され,その間に日本の律令制の骨格がかたちづくられたのであった。継受法である大宝律令が範としたものは,唐の永徽律令(えいきりつれい)(650制定,翌年施行)であったとみられている。
大宝律令そのものは今日残されていないが,その内容は9世紀に編纂された令の注釈書《令集解(りようのしゆうげ)》に引用されている〈古記〉(大宝令の注釈書)や,大宝律令が施行されていた時期の《続日本紀》の記事などによって,その大要を知ることができる。それによれば,第1に,律を刑罰法,令を教令法・行政法とすることや,天皇の権力を絶対的なものとして中央集権的統治を貫徹させることなどの,中国律令法の基本的理念はそのまま継承されている。しかし第2に,個々の条文をみると,律においては,唐律条文をそのまま引き写した条文が多く,ただ量刑は,一般に唐より軽減されていること,第3に,これに対して令では,日本の実情にあわない条文は採用しなかったり,実情にあわせて修正した条文や,日本独自の新しい条文を作成したものなどが多い。また第4に,大宝律令と養老律令の間には,一部の条文に内容上大幅な相違のみられるものはあるものの,全体としてみれば両者に根本的な違いはなかったこと,などが知られる。そして第4点からみれば,実質的には9世紀まで,形式的には近世までの日本の国家体制の枠組みを規定したものは,大宝律令であったということができる。
→律令法
執筆者:早川 庄八
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
日本において律と令がはじめて一緒に編纂された法典。律6巻(12編か)・令11巻(28編)。文武天皇の命をうけ,刑部(おさかべ)親王・藤原不比等(ふひと)らが撰上。令は701年(大宝元),律は翌年施行。浄御原(きよみはら)令や浄御原令制下の律の運用のあり方を踏襲した部分が少なくなく,とりわけ選任令・考仕令といった編目名称など形式的な面でその傾向が顕著である。従来は養老律令との差違はほとんどないとされてきたが,養老令の家令職員令や宮衛令にあたる編目が独立しておらず,編目順も異なるなど,最近は両律令の違いが強調され,浄御原令から養老律令への過渡的な法典であることが明らかにされてきた。757年(天平宝字元)の養老律令の施行後は,古律・古令として明法家(みょうぼうか)などに参照されたが,平安時代中頃までに散逸したらしい。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
… 律令法典は,7世紀後半の天智朝に近江令が編纂されたと伝えられているが,この所伝を疑問視する学説も有力なので,その点を考慮すれば,681年(天武10)に編纂に着手し,689年(持統3)に施行された飛鳥浄御原令がそのはじめのものとなるが,同令はまだ未熟なものであった。体系的といいうる律令法典は,701年(大宝1)に制定・施行された大宝律令である。その後718年(養老2)ころ,大宝律令を修訂した養老律令が編纂され,757年(天平宝字1)に施行された。…
…672年の壬申の乱の際,東国の軍隊を動員した大海人(おおあま)皇子が近江朝廷に勝利したのは,西国の軍隊が外征で疲弊していたことなど,国際関係も影響していたと推定される。壬申の乱に勝利した天武天皇と,その後をうけた持統天皇は,唐の律令制を包括的に継受しようと努め,文武天皇の701年(大宝1)には,日本の律令国家の骨格を定めた大宝律令が,唐の永徽(えいき)律令を手本として完成した。新羅など朝鮮諸国が編纂しなかった律令法典を日本が編纂したのは,日本の国際的地位とも関係があったと考えられる。…
※「大宝律令」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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