センナヘリブ(英語表記)Sennacherib

改訂新版 世界大百科事典 「センナヘリブ」の意味・わかりやすい解説

センナヘリブ
Sennacherib

古代アッシリアの王。在位,前704-前681年。アッカド語ではシン・アッヘ・エリバSin-aḫḫe-eriba。サルゴン朝の始祖サルゴン2世の息子で王位継承者。バビロニアエラムへ前後6回(前703-前689),西イランへ1回(前702),キリキアおよび北方へ1回,シリア,フェニキアパレスティナへ1回(前701)親征を行って,父王の残した大帝国の国境を維持した。パレスティナ遠征の際のユダ王ヒゼキヤに対するエルサレム攻囲については,王の碑文と齟齬(そご)する点はあるが旧約聖書に詳しい。結局この町は陥落しなかったが,エジプトへの進路上の重大障害には二度とならなかった。メロダクバラダン2世の追放に始まった対バビロニア戦役は,バビロニア王となった王の息子がエラムに連れ去られたことから起こった第6回の戦役で頂点に達し,憤激した王はバビロンおよびその主神マルドゥクに対する伝統的穏和策を大きく逸脱して徹底的な破壊・略奪を行い,アラフトゥ運河の水を引いて廃墟の町にあふれさせ,中心部には8年間人が住めないありさまであった。

 首都としては,王は即位直後にドゥル・シャッルキン放棄,古都アッシュールに住んだが,やがてニネベを首都とし(前701),都市計画を行ってこの都を拡大・整備し,豪壮・華麗な大宮殿を造営したので,ニネベは帝国滅亡の日まで首都となった。王はまた新しい青銅鋳造法の発明を誇り,土木事業では,ニネベ周辺の耕地灌漑用水を引くために大ザブ川の支流から80kmの水道を設置したりした。今日もモースルの北北東40kmのジェルワーンには,5個のアーチをもつ長さ約300mの水道橋の遺構があり,王の工学的技術に対する広い関心・才能の一端を示す。皇太子エサルハドンも荷担した宮廷陰謀によって暗殺された。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のセンナヘリブの言及

【アッシリア】より

…つぎのサルゴン2世(在位,前721‐前705。新首都ドゥル・シャッルキンを造営)から,センナヘリブ(在位,前704‐前681。首都ニネベ。…

【貨幣】より

…重量単位はシクルのほかにマヌmanu(60シクル),ビルトゥbiltu(60マヌ)があった。アッシリア帝国の王センナヘリブ(在位前704‐前681)は碑文のなかで半シクル青銅貨幣の鋳造を語っており,ペルシア帝国時代には後述のように金貨と銀貨が発行された。しかし,メソポタミアではセレウコス朝まで鋳造貨幣の流通はみられなかった。…

※「センナヘリブ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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