日本歴史地名大系 「美生村」の解説 美生村みのうむら 広島県:三原市美生村[現在地名]三原市八幡(やはた)町美生本庄(ほんじよう)村の南にあり、村域南部に連なる標高六〇〇メートルほどの山の山麓緩傾斜面を流れる御調(みつぎ)川の支流八幡川流域一帯に耕地が展開する。御調郡に属した。古代には山陽道が山麓を通り、平安時代末期には石清水(いわしみず)八幡宮領の御調別宮(みつきべつく)(八幡庄)に含まれた。鎌倉初期の成立とされる備後八幡宮大菩薩縁記(御調八幡宮蔵)に「蓑生邑」とあるのが村名の初見。室町時代には九州探題渋川氏の後裔が南部山上の小童(こどう)城に拠った。大永六年(一五二六)渋川義陸が写し置いた備後国御調郡八幡宮社領書立写(御調八幡宮文書)に記す名のうち当村にかかわるものに、元(もと)ふと・友行(ともゆき)・室(むろ)かいち・天神免(てんじんめん)・かき内(うち)・畝里(うねさと)・兼近(かねちか)・丸山(まるやま)などがある。 美生村びばいろむら 北海道:十勝支庁芽室町美生村[現在地名]河西(かさい)郡芽室町美生(びせい)・上美生(かみびせい)・新生(しんせい)・新生南(しんせいみなみ)・坂の上(さかのうえ)・上伏古(かみふしこ)・雄馬別(おまべつ)・伏美(ふしみ)・芽室基線(めむろきせん)・芽室北(めむろきた)・芽室南(めむろみなみ)・東芽室基線(ひがしめむろきせん)・東芽室北(ひがしめむろきた)・東芽室南(ひがしめむろみなみ)・渋山(しぶさん)・西士狩北(にししかりきた)明治初年(同二年八月から同六年の間)から同三九年(一九〇六)まで存続した河西郡の村。芽室村の南、北東へ流れる美生(びせい)川の流域にあり、南東は伏古(ふしこ)村、北東は十勝川を隔てて河東(かとう)郡美蔓(びばうし)村。近世にはトカチ場所のうち。明治初年ビバイロなどの地を包含して村が成立。田安慶頼支配下の明治三年の「ヒハイル」村のアイヌの戸口は四戸・二四人、うち男一三・女一一(十勝広尾雑記)。「十勝国地誌提要」には「美波色村」とみえ、同六年のアイヌの戸口は二戸・九人(男四・女五)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by