日本歴史地名大系 「北群馬郡」の解説 北群馬郡きたぐんまぐん 面積:一三九・九四平方キロ子持(こもち)村・小野上(おのがみ)村・伊香保(いかほ)町・榛東(しんとう)村・吉岡(よしおか)村県の中央に位置し、渋川市によって南北二つに分断される。北部には子持村・小野上村があり、南は渋川市・吾妻(あがつま)郡東(あずま)村、西は同郡中之条(なかのじよう)町、北は同郡高山(たかやま)村・沼田市、東は勢多(せた)郡赤城(あかぎ)村と接し、同郡北橘(きたたちばな)村と南東端部がわずかに接する。南部には吉岡村・榛東村・伊香保町があり、北東は渋川市、北西は東村、西は群馬郡榛名(はるな)町、南西は同郡箕郷(みさと)町、南は同郡群馬町、南東は前橋市。昭和二四年(一九四九)群馬郡から分離して誕生し、同二九年渋川市の成立によりほぼ現在の姿となった。北域は子持山(一二九六・四メートル)・小野子(おのこ)山(一二〇八メートル)二峰の南面にあたり東の勢多郡境を利根川が南流、北域南端で東村境・渋川市境を南東流してきた吾妻川を合せる。両河川は深い谷を形成し、沿岸は台地となっている。南域は榛名山系の東麓を占める。西部は榛名山系の相馬(そうま)山(一四一一メートル)・二(ふた)ッ岳(一三四三メートル)などがそびえ、山域を水源とする吉岡川・滝沢(たきざわ)川などの中小の河川が前橋市境を南流する利根川に向かって南東流する。標高五〇〇メートル以上は急峻な山地で集落はおもに三〇〇メートル以下の地に発達し利根川の河原で一三〇メートル前後となっている。なお六世紀後半に噴火した二ッ岳の厚い軽石層(同山付近で一〇メートル、子持村中郷で三メートル、渋川市金井で一メートル)の堆積が郡全域に及ぶ。利根川に沿って国道一七号と国鉄上越線が南北に、吾妻川に沿って国道三五三号と国鉄吾妻線が南東から北西に走る。〔原始〕小野上村の八木沢清水(やぎさわしみず)遺跡から稲荷台式土器を伴う住居跡が検出されており、県下では数少ない縄文草創期の住居跡である。子持村の押手(おしで)遺跡では縄文前期の住居跡、同後期の配石墓、弥生時代の周溝墓、古墳時代の畠・道路、平安時代の住居跡など長期にわたる各種の遺構・遺跡を検出。弥生時代の遺跡は比較的少ないが、二ッ岳の噴火に相前後して六世紀中頃から七世紀にかけての多くの古墳を確認。北域では子持村の吹屋(ふきや)古墳群・中(なか)ノ峯(みね)古墳などがあり、館野(たての)遺跡からは土師器・須恵器を伴う古墳築造期の竪穴住居跡・祭祀遺構を検出。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by