羽尾村
はねおむら
月輪村の北東、滑川の右岸に位置し、東は野田村・市ノ川村(現東松山市)、西は水房村。地名は元来、粘土・赤土を表すハニと、丘・峰を表すオを合せたものという(埼玉県地名誌)。松山領に属した(風土記稿)。「武蔵志」「風土記稿」などによれば、字打越・金光寺にある戦国期の羽尾城は、松山城(現吉見町)の出城で、城主山崎若狭守(介)は、当村を開いた羽尾七騎の筆頭といわれている(小沢家文書)。「武蔵志」には「当邑七神明七稲荷ハ長百姓ノ屋敷々々ニ祭ル所ナリ」とみえるが、村の草分となった有力百姓が七家あり(一四家ともされる)、各一族が氏神として七神明・七稲荷を祀ってきた。なお、この風習は現在に受継がれている。寛永九年(一六三二)の田畠之覚(設楽家文書)には「羽尾之村」とみえ、反別は田六九町余・畑四五町余。
羽尾村
はおむら
[現在地名]夜須町羽尾
夜須川村の北東、赤野川上流の谷間、標高三五〇メートルにある山村で、東川村(現香我美町)の枝郷。東は久重山村(現安芸郡芸西村)、西は別役村(現香我美町)で、ともに東川に属した(香我美町の→東川)。四方を五〇〇―六〇〇メートルの山嶺がめぐるが、赤野川沿いに道は通ぜず、どの方向へも山越えの道しかないが、現在は夜須方面から標高四〇〇メートルの峠を越える車道が開けている。西方山上の長谷寺の創建がいつかは不明であるが、鎌倉時代初期と推定される大忍庄の成立よりも古く、羽尾の地は古くから同寺の支配領域として認められていたのであろう。
長宗我部地検帳では、天正一六年(一五八八)の大忍庄地検帳の第五帳に「葉尾之村」がある。
羽尾村
はねおむら
[現在地名]戸倉町更級 羽尾
若宮村の西。南境は山田村(現更級郡上山田町)と接する。北東に開けた冠着山麓に一八ヵ所の散在する集落からなる。
村域内に巾田・仙石・勝山・歩行山・芝平・楪葉等の遺跡があり、中でも巾田遺跡は縄文中期後半の加曾利E式土器と古墳時代末期遺構とを複合する遺跡で、立石遺構も確認される。古墳には双子塚・桜塚・藤ノ木・大新田・東徒歩山等があり、古窯跡には郷嶺山があって須恵器を出土し、来光寺遺跡とともに更級古窯跡群を示すものと考えられている。
羽尾村一帯は「和名抄」の更級郷であろうとされ、南北朝時代に宗良親王が住んだという「更級の里」もこの羽尾の地にあてられる(→更級里)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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