翰林図画院 (かんりんとがいん)
Hàn lín tú huà yuàn
中国,唐代に始まり宋代に確立した宮廷画家組織。画院と略称される。待詔・芸学・祗候・学生の4階梯をおき,皇帝が造営する宮殿・仏寺・道観などの障壁画,さらには宮廷での鑑賞に供する画軸・画巻などの制作に当たった。画院で行われた様式を院体と呼ぶ。国家的な機構の一端としての画家組織は,周代の伝説的な官制について記す《周礼(しゆらい)》の〈考工記〉にもうかがえるように,一貫して存在し,宋代にも少府監などに属する一群の画家がいたと考えられる。ここにいう翰林図画院はむしろ皇帝の私的な機関であり,画院の画家は国家的機構の一部に組み入れられた画家とは異なって,宋代絵画史を語るのに不可欠な一流の画家であることが多かった。このような意味での画院は元以後見られなくなったが,明代には錦衣衛などに形式的に所属する画家組織があって画院と通称され,浙派という明代絵画史の一大潮流を形づくるにいたった。
→院体画
執筆者:小川 裕充
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翰林図画院【かんりんとがいん】
画院と略される。中国宮廷の絵画制作機関。宮廷官吏として仕える画家は漢代からおかれたが,唐代に形式が整備され,宋代には皇帝の芸術愛好とあいまって盛んになった。→院体画
→関連項目王原祁|崔白
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世界大百科事典(旧版)内の翰林図画院の言及
【院体画】より
…院体とは宮廷画院の画体のことで,院体画とは画院の画風をもった絵画である。画院とは翰林図画院(かんりんとがいん)の略称で,ここには天子の私的な需要に応じたり,宮廷や官衙の障壁画や装飾に携わる画家がいた。唐の玄宗の開元26年(738)に翰林院が設けられ,工芸書画の徒がいて,待詔とか内供奉と呼ばれたが,張彦遠の《歴代名画記》には画院の名がみえ,また史館画直,集賢画直,少府監,尚方などの職名をもつ画家が挙げられているから,翰林院にのみ画工がいたわけではなく,集賢院などに所属するものもあったらしい。…
※「翰林図画院」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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