ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
浙派
せっぱ
Zhe-pai
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…いやむしろ,元代からさらに明代中期までは,北宋華北山水画から南宋院体画風をも含めたより幅広い伝統によった,元の四大家以外の系統の画家たちの方が山水画壇の中でより大きな位置を占める一方,明代も中期以後になって,元の四大家につながる画家たちが勢力を増してくる。前者はその代表とされる戴進が杭州出身であったため,明代に入って浙派と称され,後者は沈周(しんしゆう)を始めとして主に蘇州出身の画家によって形成されたため,呉派と呼ばれ,あわせて明代絵画史を画する二大潮流をなした。明末に至って董其昌は禅の宗派にたとえて,浙派を唐の宗室画家の李思訓・李昭道父子に始まる北宗(ほくしゆう),呉派を盛唐の詩人でもあり文人画家でもある王維に始まる南宗(なんしゆう)とする南北二宗論を展開し,董源,巨然から米芾,米友仁,元の四大家を経て呉派文人画に至る,南宗画の正統を継承すると自負する自己の史的位置を,山水画の始源にまでさかのぼって確立しようとした。…
…なお〈詩余〉は明代には衰えていたが,明末から復活し,古典詩の一部門となり,専門に学ぶ詩人が出た。朱彝尊(しゆいそん),厲鶚(れいがく)らの浙派がまず18世紀にさかえ,張恵言らの常州詞派がついで興った。常州派の勢力は清末まで続くが,その主張は古人の用語と格調を乱さないで作者の心境を象徴的に表明することであった。…
…その影響は康熙(1662‐1722)から嘉慶(1796‐1820)に至る清朝前期に非常な声威をもった。〈浙派〉は杭州人の丁敬(1695‐1765)をはじめとして,蔣仁,黄易,奚岡のいわゆる西冷四家と,やや後の陳鴻寿,銭松,陳予鐘,趙之琛を加えた西冷八家をいう。その刻印は漢印を宗とし,石印材の欠けやすい特質を生かし,巧妙な用刀によって線を刻した方勁古拙な刻風は,従来の繊弱で柔媚な習気を一洗した。…
… では南宗画を唱えた意図は何であろうか。南北の系譜についていえば元以降,明・清にあってはどうかという点について董其昌,莫是竜は明言していないが,彼らの同調者あるいは後継者によれば,南宗は元の四大家ののち沈周(しんしゆう),文徴明,董其昌,清初の四王(王時敏,王鑑,王翬(おうき),王原祁(おうげんき))と続き,北宗は南宋画院の馬遠,夏珪,李唐,劉松年をうけて明の画院の戴文進にいたり,その後継者たちは浙江出身の戴文進にちなんで浙派と呼ばれ,沈周,文徴明ら蘇州(呉)出身者に代表される呉派文人画に対置される。そして浙派は呉派の側から狂態をたくましうする邪学であると非難されている。…
…ことに成祖長陵の稜恩殿は,当代を代表する建築である。
[絵画]
明代の絵画は,山水画を中心として展開したが,その山水画は,およそ15世紀後半を境として,前後2期に分かれ,前半には浙派が,後半には呉派が流行した。浙派の名は,後にその祖と目された戴進が銭塘(浙江省杭州)の出身であったことから名づけられたものだが,初期には浙江省,福建省出身の画家達がその中心をなしていた。…
※「浙派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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