院体画(読み)インタイガ(その他表記)Yuàn tǐ huà

デジタル大辞泉 「院体画」の意味・読み・例文・類語

いんたい‐が〔ヰンタイグワ〕【院体画】

中国、宋代の画院画風、およびその作品南宋花鳥画馬遠ばえん夏珪かけい山水画がその代表日本の山水画にも影響を与えた。院画。→画院

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精選版 日本国語大辞典 「院体画」の意味・読み・例文・類語

いんたい‐がヰンタイグヮ【院体画】

  1. 〘 名詞 〙いんが(院画)

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改訂新版 世界大百科事典 「院体画」の意味・わかりやすい解説

院体画 (いんたいが)
Yuàn tǐ huà

中国絵画様式院体とは宮廷画院の画体のことで,院体画とは画院の画風をもった絵画である。画院とは翰林図画院(かんりんとがいん)の略称で,ここには天子の私的な需要に応じたり,宮廷や官衙の障壁画や装飾に携わる画家がいた。唐の玄宗の開元26年(738)に翰林院が設けられ,工芸書画の徒がいて,待詔とか内供奉と呼ばれたが,張彦遠の《歴代名画記》には画院の名がみえ,また史館画直,集賢画直,少府監,尚方などの職名をもつ画家が挙げられているから,翰林院にのみ画工がいたわけではなく,集賢院などに所属するものもあったらしい。翰林院の先例とおぼしきものはすでに前漢にあり,黄門と呼ばれて,そこには一芸に秀でた職人たちが待詔として採用されていた。後漢では少府の属官の尚方に所属する画工がいて,盛んに帝王や功臣や勧戒の図を描いていた。六朝の宮廷作画機構は不明であるが,唐につづく五代では唐の画院を受けつぎ,後蜀や南唐などの画院が知られている。

 北宋では早くから画院があって後蜀や南唐の画院画家を吸収したらしいが,まず工部に属する文思院の画工たちが建築装飾などに携わったことが知られ,ついで太宗の雍煕1年(984),入内内侍省の下に翰林院ができて,図画・奕碁・琴阮をつかさどったことが知られ,真宗の咸平1年(998)には待詔3人,芸学6人,祗候(しこう)4人,学生40人,工匠6人の構成をもっていた。このころ,待詔の最高位は光禄寺丞で,階勲は加えられず佩魚(はいぎよ)も許されなかった。職掌は官衙の障壁画制作と建築装飾を主としたようで,南宋画院における小画面重視の制作とはやや異なるようである。元豊の改正が画院にいかなる変革を与えたかは明らかでない。徽宗の崇寧3年(1104),算学書画学が建てられ,米芾(べいふつ)が書画学博士となった。1106年書画算医学が廃止され,書画学のみ国子監に付して博士1人がおかれ,07年(大観1)には定員を30人とし,両斎に分けて士流と雑流とを区別し,10年には,書学生を翰林書芸局に,画学生を翰林図画局に入れて,学官・人吏を省いた。画学はいわば宮廷の絵画学校で,画院と画学との関係は必ずしも明らかではないが,画学の設置によって,太学法に準拠したかと推測される仕方で画工の選抜が行われ,画家に対する教育・指導・評価などに,かなりの変革があったものと思われる。

 これがいわゆる徽宗による画院の改革である。これはおそらく,絵画のジャンルの多様化や技法の複雑化,在野画家の台頭などの新しい事態に対処する措置であったろうと思われる。また徽宗画院にあっては天子みずからによる画家の指導や優遇が行われ,画院の指導理念もかなり明確で,詩画一致の思想にもとづき絵画における詩情の表出に重きを置いたらしく,ここに従来の主流である障壁画的大画面にはみられない,小味な機知的で洗練された画風が確立した。小さな画面にいかに多くの詩情を盛るかという工夫がより精緻な技法を開発することとなり,伝統的な写実主義をいっそう深める結果にもなった。南宋画院も徽宗画院を手本とし継承したが,詩情表現といった理想主義的傾向と画院画工の性格とはもともとあい入れぬ点が多く,画院の画風はしだいに矮小化し形式化していった。

 遼や金でも宋にならって画院がおかれたらしいが詳細は不明である。元では,待詔を名のる画家はいるものの画院の制は存在しなかった。明では,画院という名があったかどうかはっきりしないが,画家は御用監に属し,武英殿や仁智殿で制作にあたり,武官の官位をもっていた。清でも明にならって内廷の殿閣に画家を置いた。院体という語は元の夏文彦の《図絵宝鑑》にみられ,画家の格範だとされているが,宋初の花鳥画における黄筌一派や徐煕一派,神宗朝の郭煕の山水画,明の浙派など顕著な画風があるものの,一貫した特質としては写意よりも写実を重んじる傾向があると認められる程度である。したがって院体画といえばやはり指導理念の比較的明瞭な徽宗画院の画風,およびそれを継承した南宋画院の画風を指すのが普通であり,画家としては徽宗自身をはじめ李唐,崔白,蘇漢臣,李迪李安忠趙伯駒馬和之,閻次平,毛益,林椿(りんちん),馬遠,劉松年,夏珪らが挙げられるであろう。
花鳥画 →山水画 →文人画
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百科事典マイペディア 「院体画」の意味・わかりやすい解説

院体画【いんたいが】

中国宮廷の画院の画家が描いた絵画。観賞的な花鳥画山水画人物画に独特な様式をみせるが,時代により画風も異なり,常に宮廷趣味が画風に反映された。精巧な写実,伝統の尊重,装飾性の重視が特色。北宋(960年―1127年)でははじめ黄氏体の花鳥画,王道真の道釈画李成郭煕(かくき)風の山水画が支配的であったが,北宋末の徽宗(きそう)による画院改革を通して徐氏体の色彩主義に近い崔白らの花鳥画,詩的情趣の表現を主とした馬遠夏珪らの山水画がとって代わり,李安忠李迪(りてき),李唐らを代表とする院体画の最盛期を迎えた。
→関連項目王淵翰林図画院賢江祥啓刻糸榊原紫峰残山剰水土佐光起文人画北宗画梁楷

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「院体画」の意味・わかりやすい解説

院体画
いんたいが

中国唐代以降、宮廷の用に応ずる絵画制作の機関である画院(五代・宋(そう)・明(みん)・清(しん)の諸朝に設けられ、宋代の正式名は翰林図画院(かんりんとがいん))の画家によって描かれた絵画。ないしはその様式(概して写実的で細密な画風)をもった画。院画ともいう。北宋末から南宋中期に傑作が多く、この時期が院体画の最盛期といえる。したがって一般に院体画といえば、北宋末の徽宗(きそう)朝(1100~1125)以後と南宋の院体画様式の画をさすことが多い。南宋の画院はことに優れた画家が輩出し、花鳥画では李安忠(りあんちゅう)、李迪(りてき)、毛益、山水画では李唐、閻次平(えんじへい)、劉松年(りゅうしょうねん)、馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)などが名高い。宮廷趣味に応じた独特の院体様式は、初め花鳥画において、五代蜀(しょく)の黄筌(こうせん)の鉤勒填彩(こうろくてんさい)(対象の輪郭をはっきりとって彩色する)による装飾的な様式、いわゆる黄氏体(こうしたい)が採用されて成立したが、やがて北宋後期になると徐氏体の没骨(もっこつ)画法(墨の濃淡の調子のみで対象をとらえる)を融合した様式へと変遷していった。山水画では、大自然の全景を大観的に描く李成、郭煕(かくき)の画風が北宋画院を代表する様式であったが、徽宗朝に至って、徽宗の指導のもとに、自然の一角を取り出して描き、感情移入の可能な画中人物や点景物を配して、詩的情趣を出すことを目ざした院体山水画様式が育成された。対角線の下半分に主要景物を近接して描くこの構図法は、後世「残山剰水(ざんざんじょうすい)」、また馬遠の名にちなみ「馬一角(ばいっかく)」などとよばれた。元・明以後、院体画風は形式主義に陥り、衰退していった。なお、南北朝・室町時代には宋元画が少なからず輸入され、その院体画は応永(おうえい)期(1394~1428)以降の日本の山水画壇に大きな影響を与えている。

[星山晋也]


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山川 世界史小辞典 改訂新版 「院体画」の解説

院体画(いんたいが)

院画ともいう。中国宮廷の画院で描かれた宮廷様式の絵画。画院は唐の玄宗朝に始まり,前蜀(ぜんしょく),後蜀,南唐,宋,遼,明,清の諸朝に設けられた。院体画は花鳥,山水,人物など,宮廷の趣味的・鑑賞的様式を備え,その特色は(1)形似(写実主義),(2)伝統的手法,(3)装飾的効果を重んじた。院体画は北宋に成立し,北宋末に様式が変化して南宋に及び,南宋末以後は形式化した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「院体画」の解説

院体画
いんたいが

中国宮廷の画院の画家が描いた絵画
画院は唐の玄宗皇帝のときに設けられたが,すぐれた画家を輩出したのは宋代である。代表画家には徽宗 (きそう) をはじめ,南宋の李唐・劉松年 (りゆうしようねん) ・馬遠 (ばえん) ・夏珪 (かけい) らがいる。画風は,花鳥山水人物を鮮麗な彩色で繊細に描くのが特色であるが,のち形式化・装飾化して衰え,文人画に圧倒されていった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「院体画」の意味・わかりやすい解説

院体画
いんたいが
yuan-ti-hua

中国画において在野の画家の絵画様式に対し,宮廷画院らしい装飾的画風による絵画をいう。花鳥画においては北宋時代に黄氏体 (→黄・徐二体 ) が院体として定着し,南宋に及んだ。

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世界大百科事典(旧版)内の院体画の言及

【花鳥画】より

…黄筌と子の黄居寀(こうきよさい)らの黄氏体は,鉤勒塡彩(こうろくてんさい)法を用いて華麗な富貴さに特色があり,徐熙と孫の徐崇嗣らの徐氏体は,水墨と没骨(もつこつ)画法を取り入れて瀟洒な野逸さに特色があった。次に北宋の画院では,初め黄居寀が勢力を振るい黄氏体が指導様式となったが,しだいに趙昌,易元吉,崔白などの写生画法が採用され,末期の徽宗画院は,写実を重視した徐黄折衷の院体画を成就した。南宋の画院はこの院体画を継承し,李迪(りてき),林椿(りんちん)らが動植物の性をとらえんとして,観察の細かい精緻な花鳥をかいた。…

※「院体画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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