肥田村(読み)ひたむら

日本歴史地名大系 「肥田村」の解説

肥田村
ひたむら

[現在地名]函南町肥田・新田しんでん

狩野かの川沿いにあり南は肥田新田。北は塚本つかもと村、西は同川を挟んで駿河国駿東すんとう日守ひもり村。下田街道が通る。中世肥(比)田郷の遺称地。延宝五年(一六七七)の「伊豆鏡」によると高四五九石余、元禄初年高帳では新田高五〇石余。江戸時代初頭は幕府領大部分は宝永七年(一七一〇)相模荻野山中藩領となる(韮山町史)。一部は享保一五年(一七三〇)には旗本大河内領(贄川家文書)、幕末には一村同藩領(韮山町史)。秣・刈敷山は箱根はこね山入会。慶応元年(一八六五)の山手役米五斗四升、山手歩行札二枚・山手馬札二枚・免許馬札二枚を所持(「田方郡地方雑記録」岩瀬文庫蔵)


肥田村
ひだむら

[現在地名]彦根市肥田町

三津みつ村の宇曾うそ川対岸に位置し、室町時代後期から戦国期にかけて高野瀬秀隆・蜂屋頼隆・長谷川秀一らが在城した肥田城跡がある。元亀二年(一五七一)一二月尾張へ下向途中の山科言継は、一二日に守山を出立、武佐むさ(現近江八幡市)を経て「飛騨」に至り高宮たかみやに向かったが、この「飛騨」は当地のことであろう。天正一九年(一五九一)五月豊臣秀吉は、「ひだ村」の九三三石余を含む計一万八七八石余(小物成を含む)の直轄地の代官を観音寺詮舜に命じている(「愛知郡蔵入目録」芦浦観音寺文書)


肥田村
ひだむら

[現在地名]土岐市肥田町肥田

土岐川南岸にあり、中央を北へ肥田川が流れ、土岐川に合流する。南は駄知だち村。した街道が東西に通る。土岐氏一族の肥田氏の名字の地とされ、続群書類従本「土岐系図」の一本に肥田次郎光房、「永享以来御番帳」には奉公衆四番方に土岐肥田中務少輔の名がみえる。慶長郷帳に肥田村上下とみえ高六二一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では松平乗寿(岩村藩)領。正保郷帳では田高四七八石余・畑高四一二石余、柴山草山がある。


肥田村
ひだむら

[現在地名]鈴鹿市肥田町

やなぎ村の西、鈴鹿川旧河床の自然堤防上に位置し、伊勢参宮街道と伊勢湾岸の若松わかまつ方面に行く道路との分岐点にあたる。文禄検地帳を転記したと思われる伊勢国中御検地高帳には「肥田村」として現れる。戦国時代神戸氏が神戸かんべ城を築く以前、伊勢参宮街道は鈴鹿川南岸の中戸なかと村から神戸の東を通り肥田村に出たと伝えられ、旅人相手の茶店などもあった。

江戸時代を通じて津藩領。服部庄右衛門家は天保一四年(一八四三)以降、同藩大庄屋(肥田組)を勤め、河曲郡六ヵ村、三重郡一五ヵ村、計二一ヵ村、一万三千三一石余を支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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