田郷
まんだごう
「和名抄」は高山寺本・東急本ともに訓を欠くが、東急本国郡部には茨田郡を「万牟多」と訓ずる。茨田の地名は「日本書紀」「古事記」の仁徳天皇の条に茨田堤・茨田屯倉・茨田三宅・茨田連などがみえる。また「日本書紀」皇極天皇二年の条には茨田池が記される。七世紀頃には淀川が現流路とは別に、現在の寝屋川・古川筋に流入して湖沼をなしていたため治水工事による低湿地の開発が進められたのである。茨田連は「古事記」神武天皇段と「日本書紀」継体天皇元年と天武天皇一三年(六八四)の条にもみえ、また「新撰姓氏録」の河内国皇別には茨田宿禰が記される。
田郷
くしたごう
「和名抄」所載の郷。訓は東急本に「久之多」とある。同名の郷は伊勢国多気郡にもあり、諸本の訓も「久之多」とある。郷名は、天平宝字三年(七五九)一一月一四日の射水郡鳴戸開田地図(福井成功氏旧蔵)の北東隅に「三宅所四段直稲三百束、在櫛田郷塩野村、主射水郡古江郷戸阿努君具足」とあるのが早く、当郷の存立が少なくとも八世紀中頃にまでさかのぼることを裏付ける。これは、奈良東大寺が鳴戸庄内の三宅所(庄所)とは別に、域外の櫛田郷塩野村にも三宅所を獲得し、櫛田郷には射水郡北西部に位置する古江郷の農民が進出した事実を伝えており、土地所有や経営面で当郷が立地条件に恵まれていたことを示す。
田郷
さやたごう
「和名抄」高山寺本は「左也太」、東急本も「佐也多」と訓ずる。那波郡内には鞘田の地名は見当らない。それに最も近いものに斉田があり、現佐波郡玉村町と現高崎市にある。玉村の起源は、総社城(現前橋市)城主であった秋元長朝が天狗岩用水を開発し、その末端で用水を利用して開墾したのに始まるという。
田郷
くしだごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに「久之多」の訓を付す。「倭姫命世記」に「大若子命乎、汝国名何問賜、答白久、百張蘇我乃国、五百枝刺竹田之国止白支、其処爾御櫛落給支、其処乎櫛田止号給比、櫛田之社定賜支」とみえ、地名起源と櫛田社の鎮座の由来を記す。また「皇太神宮儀式帳」には「櫛田根掠神」がみえる。「延喜式」神名帳には「櫛田神社」「櫛田槻本神社」を載せる。
田郷
ふなきたごう
「和名抄」高山寺本・東急本ともに訓を欠く。「日本地理志料」は「船木田」の約であり、訓を「布奈岐多」とし、船材伐採の料にあてた田の意かとしている。「風土記稿」は厚木村にある「船来田明神社」をその遺名とする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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