能生白山神社(読み)のうはくさんじんじや

日本歴史地名大系 「能生白山神社」の解説

能生白山神社
のうはくさんじんじや

[現在地名]能生町能生

能生町中心部のやや東寄り、権現ごんげん崎の台上に、豊かな社叢を背にして鎮座する。祭神は伊佐奈岐命・大国主命・奴奈川姫命。旧郷社。古代頸城地方に住んでいた奴奈川族の首長である奴奈川姫を産土神として祀ったのが始まりで、最初はほこヶ岳の一峰権現岳にあった。社伝によれば、崇神天皇一〇年一一月初午の日に始まり、「延喜式」に載る奴奈川ぬなかわ神社にあたるともいう。奈良時代に泰澄が加賀白山などを基地として、いわゆる両部習合を行い、当社を崇敬し仏像を併置して白山権現と改めた。平安末期に能登石動せきどう山の衆徒によって、加賀の白山をこの地に勧請してからは白山信仰の拠点となり、源義経が武運長久を祈願したと伝える藤原経の一巻も残る。京都相国しようこく寺の詩僧万里集九が越後国府から能生に来たのは、長享二年(一四八八)一一月一八日である。万里は白山権現別当大平たいへい寺に滞在して冬を過ごし、「梅花無尽蔵」同月二七日条に、明年三月二三日・二四日の祭のための酒を仕込む様子を次のように記した。「煮桃花粥、太平寺之鎮守、白山権現、来歳三月念二三之両朝、有祭祀之舞童、挙国無貴賤詣、故衆徒房自冬中醸春而期焉、期日余之房蒸三月之酒飯、以一鉢恵、珍重」。また同書に「越之後州能生山太平寺、通泰澄大師行道之地、而鎮守白山廟有椿故事」とも記される。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報