能生町(読み)のうまち

日本歴史地名大系 「能生町」の解説

能生町
のうまち

[現在地名]能生町能生

権現ごんげん崎と弁天べんてん岩に囲まれる能生の澗を前にして、西方能生川河口うろこ崎に至る海浜に面して発達した町。背後には能生谷に広く点在する三〇余ヵ村があり、これらが北陸道に結ばれる地点を占める谷口集落でもある。したがって、古来海陸産物の集散・交流の地として、また港町宿場町として知られ、栄えた。長享二年(一四八八)一一月一八日万里集九は能生に至り、「梅花無尽蔵」に「能生旅宿口号、自越府至能生、凡六十里程」と記した。同二〇日には「能生逆旅之主為余調藷蕷之麺子、設浴湯之室、懇切不知所謝」と宿の主人の親切に感謝している。万里は白山権現別当大平たいへい寺に滞在し冬を越し、翌延徳元年(一四八九)四月二九日に能生を離れた。永禄四年(一五六一)と思われる八月二九日の長尾政景宛上杉輝虎条書(上杉家文書)に「若会津衆、大法寺衆於打着者、蔵田所ニ見参候、西浜ニのふ、名立ニ可為取陣候、乍然越中火急之儀於無是ハ、府中ニ可被置事」とあり、蘆名盛氏・大宝寺義増に対し、能生、名立なだち(現名立町)に陣を張るよう命じている。


能生町
のうまち

面積:一五一・二八平方キロ

町の南方、火打ひうち(二四六二メートル)に発してほぼ北流し、うろこ崎で日本海に注ぐ延長二五キロの能生川の左右両岸に広がる地。西は糸魚川いといがわ市、南は中頸城郡妙高みようこう村、東は名立なだち町で、いずれも山並をもって接する。能生川河畔の耕地は河床より低位の場所が多く、近世にはしばしば川欠け・砂入の難を起こしている。また糸魚川市境、島道しまみち川上流のほこヶ岳(一三一六・三メートル)は、烏帽子えぼし火山群の一つで、前山権現ごんげん岳とともに霊山とされてきた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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