日本歴史地名大系 「臼杵城跡」の解説
臼杵城跡
うすきじようあと
市街地の北東に位置し、海食崖の発達した
〔丹生島城〕
某手日記(永弘文書)に弘治三年(一五五七)五月二一日「大友氏御座スウスキ焼失候」と臼杵で火事があり、佐田弾正忠(隆居)は早速「殿中火事」見舞の飛脚を送っている(五月二五日「大友氏加判衆連署書状」佐田文書)。このように弘治三年時点には城とまではいえなくとも、居館的な構造物が丹生島の地に存在したことは確実である。一五五七年一〇月二九日ビレラはパードレおよびイルマンらに「我等の到着の数日前、国王(義鎮)は反乱の重臣数人を殺させ、自分は安全にこの対策を遂行するため、城のような島に逃げた」と報告している(「ビレラ書簡」イエズス会通信)。このほかメストレ・ベルショール・ヌネスは、豊後の王は豊後(府内)より七レグワの山に逃れたといい(一五五八年一月一〇日「ヌネス書簡」イエズス会士日本通信)、フロイス「日本史」には「いっそうの安全をはかるため新しい城に引き籠りました。その城は、彼が当時府内から七里距たった臼杵に築いたもので、自然の岩の上に建っていて、三方が海に囲まれています」ともみえる。この事件は義鎮に対する小原鑑元・本庄新左衛門尉・中村長直・佐伯惟教の反乱で、日本側史料でも確認できる(弘治二年五月二〇日「大友氏加判衆連署奉書」大神政治文書)。築城年代について「大友家文書録」は「是年、宗麟相攸海部郡臼杵丹生島、新築城、自上原館移徙焉」とするが、「或曰、是行為明年甲子之事」と、永禄五年(一五六二)ないしは六年築城説をとっている。このほか稲葉家譜(臼杵藩政史料)や「豊後国志」などにもみえるが、築城開始年月日、完成年月日は定かでない。しかし永禄六年の七月七日の臼杵鑑速・戸次鑑連・吉弘鑑理に宛てた大友宗麟書状(立花家文書)の追而書に「追而屋敷誘過半相調候、彼仁存知之義候間、委可被相尋候」とみえるので、少なくとも永禄六年七月時点では築城半ばであったことは間違いない。
天正六年(一五七八)宗麟は受洗に先立ち、新夫人となったジュリアとともに当城を出て
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報