保戸島(読み)ほとじま

日本歴史地名大系 「保戸島」の解説

保戸島
ほとじま

[現在地名]津久見市保戸島

津久見湾の入口、四浦ようら半島東端部に浮ぶ面積〇・九平方キロの小島。「和名抄」に記載される海部郡穂門ほと郷の遺称地とされる。年未詳一二月五日の佐伯惟教書状(薬師寺文書)に「保戸」とみえる。弘治二年(一五五六)佐伯惟教は小原鑑元・本庄新左衛門尉・中村長直らとともに大友義鎮に反し、四国に逃亡した。しかし永禄一二年(一五六九)筑前立花たちばな(現福岡県久山町など)をめぐる大友方と毛利方の対立が激化するなか、惟教は津久見の薬師寺氏を介して帰参を願い許されている。この書状は帰参工作中の薬師寺氏宛のもので、薬師寺新三・備後両人の仲介役の苦労に感謝し、使者二人を保戸島経由で渡海させたことを告げている。一五七八年(天正六年)一〇月三日大友宗麟は日向務志賀むしか(現宮崎県延岡市)の地にキリスト教的理想国家を建設する目的で、かなりの軍勢と幾門かの大砲を携え、赤い十字架を描いた四角い旗を掲げた船で臼杵うすきを出航した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「保戸島」の意味・わかりやすい解説

保戸島
ほとじま

大分県南東部、津久見湾(つくみわん)の入口にある島。面積0.86平方キロメートル。1892年(明治25)四保戸(よほと)村から分村して保戸島(ほとじま)村となり、1951年(昭和26)津久見市に編入。最高点は184メートル、北・東・南三方が海食崖(がい)で、西部の小平地から山腹へ住宅が階段状に建ち並ぶ。飲料水、電気は四浦半島(ようらはんとう)から海底を送られてくる。第4種漁港で、マグロ延縄(はえなわ)漁船パラオ、カロリン諸島近海を主漁場とし、小型船は土佐沖から三陸沖へ出漁する。40歳くらいからは豊後(ぶんご)水道のイサキ、タイ、サワラ、ブリなどの一本釣りに従い、消防団活動や段々畑耕作は婦人の手による。1957年離島振興法による離島振興対策実施地域指定を受けた。津久見港との間に高速船が運航する。人口1166(2009)。

[兼子俊一]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「保戸島」の意味・わかりやすい解説

保戸島
ほとじま

大分県南東部,津久見湾の湾口東端にある島。旧村名。 1951年津久見町などと合体し,津久見市に属することとなった。急峻な傾斜地が多く,平地はほとんどない。人口過密の島で,島の西側に鉄筋多層構造の家屋集落を形成している。産業漁業が主で,マグロ延縄漁業の基地として知られる。面積 0.86km2。人口 1520 (2000) 。

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デジタル大辞泉プラス 「保戸島」の解説

保戸島

大分県津久見市、津久見港の東沖約14キロメートルの豊後水道に浮かぶ島。「ほとじま」と読む。面積約0.86平方キロメートル。港の高台に立つ島の鎮守の加茂神社は京都・上賀茂神社の分霊を祀る由緒正しい神社で、夏の大祭の湯立て神事などが知られる。明治期に始まったマグロ漁業が現在も盛ん。

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世界大百科事典(旧版)内の保戸島の言及

【津久見[市]】より

…市内上青江尾崎の小ミカン先祖木(せんぞぎ)(天)は樹齢800年といわれ,いまなお毎年実をつける。四浦(ようら)半島先端にある保戸島はマグロはえなわ船の基地である。【勝目 忍】【山口 梅太郎】。…

※「保戸島」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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