興原敏久(読み)おきはらのみにく

日本大百科全書(ニッポニカ) 「興原敏久」の意味・わかりやすい解説

興原敏久
おきはらのみにく

平安前期の法律学者。生没年未詳。三河国の人。はじめ無姓の物部(もののべ)氏であったが、813年(弘仁4)物部中原宿禰(もののべのなかはらのすくね)を賜り、さらに天長年間(824~834)に興原宿禰を賜姓延暦(えんりゃく)末年から明法家(みょうぼうか)として頭角を現し、808年(大同3)外従五位下(げじゅごいのげ)、この頃に明法博士、813年大判事に任。『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』および『令義解(りょうのぎげ)』の撰修にもあずかる。830年正(しょう)五位上を叙位。その明法勘文(かんもん)は『法曹類林(ほっそうるいりん)』『政事要略(せいじようりゃく)』などにみえ、また『令集解(りょうのしゅうげ)』に引かれる「物記(ものき)」「興大夫云(おきのだいぶいわく)」「原(はら)大夫云」「物云(ものいわく)」などは敏久の学説をさしているといわれている。

[柴田博子]

『所功著「『令義解』撰者伝」(『史正10』所収・1980)』『利光三津夫著「明法家物部敏久についての一考察」(『続律令制の研究』所収・1988・慶応通信)』

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朝日日本歴史人物事典 「興原敏久」の解説

興原敏久

生年:生没年不詳
平安前期の明法家。姓は初め物部。弘仁4(813)年1月物部中原宿禰の複姓を賜り,天長初年,興原宿禰と改姓した。出身は三河国(愛知県)。大外記,大内記などを経て弘仁初年に明法博士,同4年大判事となり,『弘仁格式』や『令集解』など法令集の編纂に加わる。特に前者功績により弘仁7年,正五位下。『令集解』に引用する「物云」「興大夫云」などは彼の学説と思われる。平安末期の法制書『法曹類林』にも敏久の勘申した明法勘文が収められている。明法博士家としては9世紀前半は讃岐氏,後半からは惟宗(令宗)氏が有力となるが,興原氏は敏久を出しただけで終わった。

(瀧浪貞子)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「興原敏久」の解説

興原敏久 おきはらの-みにく

?-? 平安時代前期の官吏
はじめ物部氏。弘仁(こうにん)4年(813)物部中原宿禰(すくね)の氏姓をあたえられ,のち興原宿禰に改姓。明法(みょうほう)博士から大判事となり,「弘仁格式」「令義解(りょうのぎげ)」の撰修にかかわった。三河(みかわ)(愛知県)出身。名は「としひさ」ともよむ。

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