若桜郷
わかさごう
古代律令制下の八上郡若桜郷(和名抄)の系譜を引く中世の郷。現若桜町若桜を遺称地とし、一帯に比定される。弘安三年(一二八〇)七月六日の年紀を有する島根県玉湯町玉作湯神社蔵の太鼓銘に「因州八東郡若桜郷西高野村 光福寺太鼓也」とみえ、往生極楽のため「すいあ」が奉納した旨が記されている。「若桜郷西高野村」は江戸時代の高野村であろう。光福寺は同太鼓の天文一一年(一五四二)の追銘に、信徒と推定される「江津之内与三さへもん」(江津は現鳥取市)が革張を解き釘を抜いたとあるので、このときまで存在したとみられるが、「因幡志」には記載がないので、江戸時代には廃絶していたようである。この太鼓は「光福寺時衆」の「僧□阿」によって元応二年(一三二〇)から元亨元年(一三二一)にかけて修理されており(同銘文)、草創以来時衆寺院としてあったことが知られる。
若桜郷
わかさごう
「和名抄」諸本とも訓を欠く。郷名は履中天皇(磐余稚桜宮)の御名代部若桜部にかかわるとされ、あるいは「ワカサクラ」とよんだものか。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 