コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

履中天皇 りちゅうてんのう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

履中天皇
りちゅうてんのう

第 17代に数えられる天皇。仁徳天皇の第1皇子。母は皇后イワノヒメノミコト。名はオオエノイザホワケノミコト。『日本書紀』によれば,仁徳天皇の死後皇位を望む同母弟の住吉仲皇子に難波宮を囲まれたが,平群木菟 (へぐりのつく) らと河内に逃れ,その後大和の石上神宮に入って,弟の瑞歯別王 (みずはわけのみこ) (→反正天皇 ) に仲皇子を殺させ,磐余雅桜宮 (いわれのわかさくらのみや) に即位した。仁徳天皇の娘草香幡梭 (くさかのはたひ) 皇女を皇后とした。陵墓は大阪府堺市西区百舌鳥耳原南陵 (もずのみみはらのみなみのみささぎ) 。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

デジタル大辞泉の解説

りちゅう‐てんのう〔‐テンワウ〕【履中天皇】

記紀で、第17代の天皇。仁徳天皇の第1皇子。名は去来穂別(いざほわけ)。倭の五王の一人、讚に比定する説がある。

出典|小学館デジタル大辞泉について | 情報 凡例

デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

履中天皇 りちゅうてんのう

記・紀系譜による第17代天皇。在位は5世紀前半ごろ。
父は仁徳天皇。母は磐之媛命(いわのひめのみこと)。都は磐余(いわれ)の稚桜(わかさくらの)宮。「日本書紀」によると,はじめて諸国に国史(ふみひと)(書記官)をおいて,国内の情勢を報告させたという。「宋書」倭国伝の倭王讃(さん)とする説もある。履中天皇6年3月15日死去。70歳。墓所は百舌鳥耳原南陵(もずのみみはらのみなみのみささぎ)(大阪府堺市)。別名は去来穂別天皇(いざほわけのすめらみこと)。

出典|講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて | 情報 凡例

大辞林 第三版の解説

りちゅうてんのう【履中天皇】

記紀で、第一七代天皇去来穂別尊いざほわけのみことの漢風諡号しごう。仁徳天皇第一皇子。

出典|三省堂大辞林 第三版について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

履中天皇
りちゅうてんのう

生没年不詳。5世紀中葉の天皇。記紀では第17代に数えられる。ただし『日本書紀』には在位6年で稚桜宮(わかさくらのみや)に崩ずと記す。去来穂別(いざほわけ)(伊邪本和気)天皇(命(みこと))ともいう。仁徳(にんとく)天皇の皇子で、母は磐之媛(いわのひめ)とする。『宋書(そうじょ)』にみえる倭王讃(わおうさん)を履中天皇とみなす説がある。墓は百舌鳥(もず)耳原陵と伝える。現在履中天皇陵とみなされている古墳(堺(さかい)市石津ヶ丘町)は、全長365メートルの前方後円墳である。[上田正昭]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

世界大百科事典内の履中天皇の言及

【住吉仲皇子】より

…仁徳天皇の皇子で,母は磐之媛(いわのひめ)皇后。難波宮を焼き同母兄の履中天皇殺害を謀るが,天皇は物部大前宿禰,漢直阿知使主(あやのあたいあちのおみ)らに助けられ大和の石上(いそのかみ)神宮に入る。一方,皇子は瑞歯別皇子(みずはわけのみこ)(後の反正天皇)に指嗾(しそう)された隼人(はやと)の刺領布(さしひれ)に刺殺される。…

※「履中天皇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト世界大百科事典 第2版について | 情報

履中天皇の関連情報