菊池貫平(読み)きくちかんぺい

改訂新版 世界大百科事典 「菊池貫平」の意味・わかりやすい解説

菊池貫平 (きくちかんぺい)
生没年:1847-1914(弘化4-大正3)

秩父事件の指導者の一人。信濃国南佐久郡北牧村に生まれ,同郡北相木村菊池家に婿養子となる。一時岩村田町で代言人となったが,1884年,秩父事件に同村の井出為吉と参加し,困民軍の参謀長となり軍律5ヵ条を起草した。11月3日,皆野において憲兵隊との銃撃戦を指揮し,翌日本陣が解体すると坂本宗作らと山中谷を長駆して信州に入り,600名の農民を集めたが,9日未明東馬流の一戦に敗れ,困民軍は野辺山原で解体した。欠席裁判死刑。しかしこれは大赦を受け,別件網走に投獄され,出獄後は平穏な余生を送った。
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20世紀日本人名事典 「菊池貫平」の解説

菊池 貫平
キクチ カンペイ

明治期の社会運動家 秩父困民党総理。



生年
弘化4年1月7日(1847年)

没年
大正3(1914)年3月17日

出生地
信濃国南佐久郡八那池(長野県)

経歴
代言人(弁護士)を務めたが、明治17年秩父事件に参加。困民党参謀長となり、軍事五ケ条を起草。皆野で憲兵隊との銃撃戦を指揮し、信州を転戦、のち総理となる。東馬流の一戦で敗北し、逃亡。敗戦後甲州で逮捕され、欠席裁判で死刑となる。のち大赦により、38年網走監獄より帰郷

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「菊池貫平」の解説

菊池貫平 きくち-かんぺい

1847-1914 明治時代の自由民権運動家。
弘化(こうか)4年10月生まれ。長野県佐久郡の人。明治17年自由党にはいる。同年秩父(ちちぶ)困民党にくわわって蜂起軍の参謀長となり,軍律5ヵ条を起草。敗戦後欠席裁判で死刑判決をうけ,19年捕らえられる。憲法発布の大赦で免訴となったが別件で無期刑となり,38年に出獄した。大正3年3月18日死去。68歳。旧姓小池

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367日誕生日大事典 「菊池貫平」の解説

菊池 貫平 (きくち かんぺい)

生年月日:1847年1月7日
明治時代の社会運動家。困民党指導者
1914年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の菊池貫平の言及

【秩父事件】より

…11月1日結集地下吉田村椋(むく)神社に集まる前に農民は警官隊と衝突し,両者に2名ずつ死者を出した。神社において総理田代栄助,副総理加藤織平,参謀長井上伝蔵,甲大隊長新井周三郎,乙大隊長飯塚森蔵をはじめ村単位の小隊長など100名近くの役割表を発表し,菊池貫平の起草した軍律を発表した。軍律の自己規制はよく守られるとともに,隊編成,加藤の火薬や火縄の手配など組織化を強く印象づける。…

※「菊池貫平」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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