明治14年の政変(1881)で松方正義が大蔵卿に就任すると,国家財政確立のためデフレ政策をとり,国民経済は極度に収縮した。これに追打ちをかけたのは1883年にはじまる世界恐慌で,日本の貿易も大きな打撃を受けざるをえなかった。当時横浜の全輸出額の6~7割を占めた生糸は,84年になると3割減となり,そのうえこの年の養蚕は平年の6~7割の収穫であり,この結果,とくに中部,関東の養蚕・生糸生産地帯の農民経済は窮乏に追い込まれた。1883,84年には全国的規模で農民騒擾(そうじよう)事件が頻発し,水田地帯では小作料減免や地租納期などとともに負債返済の問題がとりあげられたが,84年になると養蚕地帯で負債農民の増大,身代限りの続出のために負債返済が主要目標となった。地域の広狭にかかわらず,負債農民の集団が運動体をなすとき,各地で借金党,負債党,貧民党,困窮党,窮民党,延期党などと呼ばれたが,最大の秩父事件において当時すでに困民党の名が定着しているので,いまこれが一般化している。なかでも秩父事件,武相地方にこの概念は限定されるかにみえるが,概念の外延を拡大してもよい。しかし当時自由民権期にあたり,これと困民党がどういう関係にあったか,どういう組織,運動形態をもったかは,地域によって異なっている。いわゆる群馬事件においては2名の自由党員が負債農民に呼びかけて数十名を動員して高利貸1戸を打ちこわしたが,農民の組織はなかった。武相困民党において負債農民の運動が各地に展開し,負債返済様式について高利貸や銀行類似会社に集団交渉を計画するとき,自由党とは関係のない富裕な民権家と呼ぶべきグループははじめは農民と債権者の仲裁活動,県郡にたいする請願活動を行ったが,やがてこのグループが運動の指導権をにぎるようになり,84年11月には年賦党員の総会を開いた。しかし激しい弾圧のもとで合法主義を守らざるをえなかった。
秩父事件においては困民党の成立,組織はまったく異なった関係を示し,自由党員は10名であったが,84年春から中小農層から20名入党し,このなかから困民党の組織者(サブリーダー)が出ている。84年8月以降困民党の組織運動が開始され,高利貸説諭の請願運動,高利貸との交渉をくりかえし,負債農民の動員組織とともに指導部を構成した。困民党は1881年の自由党盟約を農民の生活意識から読みかえ,困民党の盟約をつくり,困民党に参加することを自由党に加盟すると考える農民も多かった。はじめ合法運動の様相をたもったが,その限界に達すると武装蜂起がサブリーダーの主張となり指導部をつきあげ,群馬,長野県の隣接地帯にも呼びかけ,84年11月1日を期して蜂起し,隊編成,軍律を定め,鎮台兵,憲兵隊の派遣があったにもかかわらず,11月9日まで抵抗を持続した。この間革命的ロマン主義ともいうべき政治性もあらわれ,日本の農民蜂起としては自由民権の規定を受けるまれな例であった。
執筆者:井上 幸治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1883、84年(明治16、17)に、世界経済の不況、松方財政のデフレ政策により全国農漁村に発生した負債農民。当時、困民党、借金党、貧窮党などとよばれた。困民党という名称は、広くいえばこの負債農民集団をさすと考えてもよいが、農民が主体的に使ったものとすれば、現在では秩父(ちちぶ)困民党、武相(ぶそう)困民党に限定されることになる。83年から84年の初期にかけては、地租・小作料・貸し金の軽減が水田地帯の農民の要求で、彼らは小作党とよばれたが、84年になると横浜貿易の不振、デフレのために生糸生産地帯の農民が生活の補助手段を奪われ、負債農民に転落し、生活防衛の自己運動を起こすに至った。これが困民党の運動であり、したがって群馬県で83年11月から数か所に起こった農民騒擾(そうじょう)も、現在からみれば困民党の示威運動と考えることができる。
松方財政はデフレとともに地方税の増徴をもたらしたが、近代的金融制度が整っていないため、農民は消費金融を高利貸営業者、金貸し会社に求めることになり、需給関係から法外な利子率の引上げが行われ、身代(しんだい)限りとなる者が輩出した。このため、困民党は、債主に対して集団的に負債据置き、無利子の要求を突きつけるようになり、相州(神奈川県)南西部では高利貸殺害事件にまで発展した。彼らは数か村の連帯のうえに大衆動員を行い、運動は相州北部に波及。1884年8月10日御殿峠で数千名の大集会を開き、200人以上が八王子警察署に引致(いんち)された。このとき自由党員が債主と困民との仲裁に入った。9月には負債農民が八王子署に乱入する事件も発生。11月武相困民党を結成して85年まで各地で騒擾を繰り返した。
これに対して秩父困民党の特徴は、その運動形態、要求について、全国の農民騒擾事件の要因を結晶させ、自由党の反権力姿勢を農民的に受け止め、極限の武装蜂起(ほうき)までもたらした点にある。秩父でも1883年11月から高利貸説諭の請願運動が各村の惣代(そうだい)の手で行われ、84年夏から困民党の組織運動が進むなかでも続けられた。党という以上、集団の組織性が求められるが、動員体制をつくる段階で村の約100人の活動分子が活動し、困民党盟約を起草し、11月1日蜂起に際しては総理、副総理、大隊長、小隊長などの隊編制をとったうえ、軍律まで定めた。農民の心を動かしたのは自由党盟約の読み替え、人民主権的な生存権や社会的平等主義であり、これが秩父のみでなく、群馬、長野にわたる数千の農民を動員し、10日間鎮台兵、憲兵、警官隊と戦った思想となった。
[井上幸治]
1883~84年(明治16~17)の全国的な不況のなか,関東・中部・東海・東北南部の各地方を中心に結成された負債農民の集団。各地で借金党・貧民党・困民党などとよばれた。大蔵卿松方正義のきびしいデフレーション政策によって全国的に物価低落や土地価格の下落がおき,高利貸から借金していた農民に打撃を与えた。農民は借金の据置・年賦返済・利子引下げ・質地請戻しを要求して立ちあがったが,官憲の弾圧により運動はしだいに終息した。著名な困民党として武相困民党・秩父困民党があるが,後者は従来自由民権運動とのかかわりでとらえられてきた。最近の研究では,近世の土地慣行に焦点をあて,民権運動とは別の自律性をもった民衆運動と考えられている。
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…こういう状況下で1883年末から郡役所,警察署に対して,自由党員と村の惣代ら在地オルグ約30名によって,高利貸説諭の請願運動が行われ,それによって84年の初めから中小農民の自由党加盟者が増加した。これが秩父困民党結成の核である。 1884年8月,生糸の安値に絶望的になった負債農民の山林集会は主として秩父西部でしきりに繰り返され,そのつど警官に解散させられたが,この間に困民党の組織の輪は広がっていった。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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