1884年(明治17),埼玉県秩父郡を中心に起こった農民蜂起。自由民権期の激化事件の頂点をなし,当時は〈秩父暴動〉〈秩父騒動〉といわれた。明治政府はこれを少数の壮士,博徒,脱監人が多数の善良な農民を教唆して起こした事件と解釈し,報道機関もその見解に従い,当時真相はわからなかった。
横浜開港以来,秩父といわず全国の平均的養蚕農家は国際商品となった生糸生産によって生活を補完したため,世界経済の動向に従って左右された。国内経済はすでに松方デフレ政策によって収縮していたが,1883年の世界恐慌が重なり,民衆の生活は貧窮化し,この年から翌年にかけて農民騒擾(そうじよう)事件が頻発した。秩父山地,関東山塊の農山村は84年には養蚕不作,生糸価格の暴落,松方財政の地方税増額,学校設置費,新道開発などの負担の増大によって負債農民化が急激に進んだ。つまり金融制度が不備のため生活金融を生産会社(金貸会社),高利貸営業者,質屋に頼り,不況期の金融需給の不均衡から金利は法外に高騰し,負債据置き,年賦返済が農民の共通の要求となり,騒擾事件に発展した。84年秩父では裁判所の召喚を恐れ流浪する農民が100名を超える。こういう状況下で1883年末から郡役所,警察署に対して,自由党員と村の惣代ら在地オルグ約30名によって,高利貸説諭の請願運動が行われ,それによって84年の初めから中小農民の自由党加盟者が増加した。これが秩父困民党結成の核である。
1884年8月,生糸の安値に絶望的になった負債農民の山林集会は主として秩父西部でしきりに繰り返され,そのつど警官に解散させられたが,この間に困民党の組織の輪は広がっていった。9月に32ヵ村にわたって在地オルグによる指導組織ができあがると,大宮郷(現,秩父市)の田代栄助が招請され,加藤織平,井上伝蔵らと幹部集団を形成した。こういう動員組織の確立する過程で農民にとって困民党参加は自由党加盟と同じ意味となり,自由党盟約は農民的に読み替えられ,生存維持の現実問題となり,〈板垣さんの世直し〉が標語となる。幹部と農民をつなぐサブリーダー(在地オルグ)には貸金の10年据置き,40年賦返済,雑収税・村費の引下げなどの要求を初めから竹やり蜂起で強訴しようとするものも多かったが,幹部は合法的請願運動,高利貸との個別折衝に手をつくし,万策つきてサブリーダーの突上げによって蜂起を決意した。10月中旬,軍用金準備のため2回の強盗事件を起こし,大井憲太郎の阻止の説得も拒否し,10月26日,下吉田村(現秩父市,旧吉田町)粟野(あのう)山会議で11月1日を蜂起の日と決定した。
秩父郡東部の風布(ふつぷ)村(現,長瀞町,寄居町)は10月31日蜂起し,群馬県南西部の農民も秩父に向かった。11月1日結集地下吉田村椋(むく)神社に集まる前に農民は警官隊と衝突し,両者に2名ずつ死者を出した。神社において総理田代栄助,副総理加藤織平,参謀長井上伝蔵,甲大隊長新井周三郎,乙大隊長飯塚森蔵をはじめ村単位の小隊長など100名近くの役割表を発表し,菊池貫平の起草した軍律を発表した。軍律の自己規制はよく守られるとともに,隊編成,加藤の火薬や火縄の手配など組織化を強く印象づける。組織化が秘密裏にすすんだので警察も困民軍の編成が6日までつかめなかった。1日夜二手に分かれて小鹿野(おがの)町に行進し,途中で数軒の高利貸を打ち毀しあるいは放火し,一方には組織のない村々にゲリラが侵入し戸長役場の奥印帳を焼き,人足催促の駆出しをかけた。受身の村のほうが参加率が高かった。2日小鹿野から大宮郷へ行進するときは3000名ぐらいの勢力で,大宮を占領するとまったく官権力は存在しなかった。この夜7軒の高利貸が攻撃され,8軒の豪家から軍用金を強借し,革命本部の受領証を出した。困民軍は郡役所を本部とし,この夜から翌日にかけて勢力は絶頂に達した。3日午前勢力を三分し,一手は荒川に沿って皆野村(現,皆野町)に達し,憲兵隊と銃撃戦を行い,一手は前日の道を戻り下吉田から皆野対岸に進み,途中から群馬の警官に対してゲリラを派遣した。この日から憲兵隊,鎮台兵は秩父に入る諸口に配置されはじめ,4日午後,帰順した巡査が新井周三郎を斬る事件,大宮の自警団の接近という状況のうちに田代,井上以下幹部は皆野の本陣から逃亡した。しかし出先のゲリラ部隊は石間(いさま)村(現秩父市,旧吉田町)半納において群馬警官隊を襲い警部をたおし,他の一部はこの夜野上(現,長瀞町)から児玉郡金屋に出て鎮台兵と戦い,戦死10名を出して敗れた。さらに本陣解体後,菊池が総理となって100余名を率い5日には峠を越えて群馬県の山中谷(神流(かんな)川流域)に進み,7日十石峠を越えて長野県南佐久郡に現れ,裁判記録から見ると600名の農民を結集し,高利貸を襲ったが,9日未明東馬流(ひがしまながし)(現,小海町)で高崎鎮台兵と警官隊の襲撃を受け,土地の婦人1名のほか13名の戦死者を残し,ついに八ヶ岳野辺山高原で解体した。
これが10日にわたり官権力に抵抗した秩父困民党軍の最後であった。その規模では武上信の広域にわたり,事件後の処罰者も4500名を超え,憲兵隊,鎮台兵の出動にもかかわらず10日間鎮定されず,明治天皇もその経過を下問したことは事件の重大性を表象していた。
執筆者:井上 幸治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1884年(明治17)に発生した秩父困民(こんみん)党の蜂起(ほうき)事件。秩父の山村では穀物自給が不可能で、主として生糸生産によってこれを補完していたが、1883、84年、世界不況と松方財政のデフレは商品経済を直撃したうえ、地方税の引上げ、学校・新道の開設費を伴い、農民の生活は窮迫に追い込まれた。消費金融の需給関係も働き、高利貸営業者の利子率は法外なものとなり、負債農民の破産や逃亡も続出した。1883年11月、農民の総代は郡役所に高利貸説諭の請願をしたが、受け付けられなかった。1884年になると、田代栄助(たしろえいすけ)も自由党に加入しようとし、2月、大井憲太郎の来秩を機に、没落に瀕(ひん)する中農層が20人ほど入党し、これが困民党結成の中核となると同時に、自由党盟約を農民的に読み替えた。8月になると各地で負債農民の集会が行われ、惣代(そうだい)は初めは30人ぐらいであったが、やがて100人となり、9月になると幹部は田代栄助を招請し、各村の動員組織はしだいに整っていく一方、なお請願運動や高利貸に対する返済延期の折衝を行った。
10月下旬、万策尽きた農民は蜂起を決定し、困民党盟約を作成、これは困民救済、金貸しと交渉し承諾のないときは打毀(うちこわし)、戸長役場の書類焼却、諸税・学校費の廃止などを内容とした。同じころ大井憲太郎は蜂起阻止の説得使を派遣したが、困民党幹部は自由党の意図を乗り越えて、総意をもって11月1日の蜂起を決定した。10月31日まず風布(ふっぷ)村が蜂起し、その夜金貸し会社を襲撃し、翌1日午前中、吉田において警官隊と交戦し、午後この地方の農民を中心に下吉田(秩父市)の椋(むく)神社に結集した。竹槍(たけやり)、刀、銃が武器であった。ここで幹部は役割表を発表し、総理田代栄助、副総理加藤織平(おりへい)、会計長井上伝蔵(でんぞう)、以下二大隊、各村別小隊という編成をとり、厳しい軍律を定めた。吉田から高利貸に攻撃をかけつつ小鹿野(おがの)に進み、2日3000人をもって大宮郷(おおみやごう)(秩父市)に侵入、高利貸を襲い、富豪から募金した。官権力を一掃したが、県は内務卿(きょう)に軍隊派遣を要請し、鎮台兵、憲兵は3日には配置につき、皆野(みなの)において銃撃戦を行った。しかし4日午後に幹部は戦意を失い、田代をはじめ皆野の本陣から逃走したにかかわらず、その夜500人に近い一隊は秩父から出撃して児玉郡金屋村(本庄(ほんじょう)市)で鎮台兵と交戦して10人に余る死者を出した。一方、菊池貫平(かんぺい)の一隊は群馬に入り神流(かんな)川をさかのぼり、長駆長野県に侵入し、数百名の農民を加えて9日未明、南佐久郡の東馬流(ひがしまながし)において鎮台兵、警官隊と交戦して撃破され、14人の戦死者を出し、敗残の兵は午後八(やつ)ヶ岳山麓(さんろく)で攻撃を受けて解体した。事件の被告は秩父のみで6400人を超え、参加者は群馬、長野に及び、兇徒聚衆(きょうとしゅうしゅう)罪による死刑は7人を数えた。困民党の事件中、自由民権運動史に刻まれる最大のものであった。
[井上幸治]
『井上幸治著『秩父事件』(中公新書)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1884年(明治17)11月に埼玉県秩父地方でおきた中農自由党員・貧窮農民(困民)による本格的かつ組織的な武装蜂起事件。養蚕・生糸生産を主産業とする秩父地方は松方デフレの影響を最も強くうけた地域で,借金農民の負債返済方法の緩和運動は84年に入ると質的にも量的にも拡大した。当初は債権者や郡役所への請願という合法的な運動が続けられたが,いずれも拒否され,10月になると蜂起への準備が進められた。決行予定日は11月1日であったが,10月31日一部農民が決起,警官隊と衝突し,事実上戦闘が開始された。困民軍は一時全秩父を支配下におくほどの勢いを示したが,警察の態勢の確立,軍隊・憲兵の出動,困民軍指導部の動揺と混乱などにより,月半ばには壊滅した。負債の年賦返済・諸雑税廃止といった生活次元の要求を基底にしつつ,村・県・内務省への要求を掲げたこと,きびしい軍律のもとに行動したことなどに特色がある。なお,この事件の理解・評価については,自由民権運動の一環とする見方と,伝統的な負債弁済をめぐる農民騒動の性格を重視する見方とが対立している。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…1883,84年には全国的規模で農民騒擾(そうじよう)事件が頻発し,水田地帯では小作料減免や地租納期などとともに負債返済の問題がとりあげられたが,84年になると養蚕地帯で負債農民の増大,身代限りの続出のために負債返済が主要目標となった。地域の広狭にかかわらず,負債農民の集団が運動体をなすとき,各地で借金党,負債党,貧民党,困窮党,窮民党,延期党などと呼ばれたが,最大の秩父事件において当時すでに困民党の名が定着しているので,いまこれが一般化している。なかでも秩父事件,武相地方にこの概念は限定されるかにみえるが,概念の外延を拡大してもよい。…
…弾圧に憤激した激派は84年群馬事件,加波山事件などを起こし,蜂起,挙兵,政府高官暗殺などの直接行動によって政府転覆を企てるに至った。そして同年11月には,不況と負債にあえぐ借金党,困民党の運動を基盤として秩父の農民が蜂起し,革命の旗を掲げて郡内を制圧するという事件(秩父事件)が起こった。激化事件としては以後,飯田事件,名古屋事件,静岡事件などが数えられるが,いずれも決行に至らずに検挙された。…
※「秩父事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新