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秩父事件 ちちぶじけん

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

秩父事件
ちちぶじけん

1884年埼玉県秩父郡で起った自由党員と農民の蜂起事件。いわゆる自由民権運動における激化諸事件の一つ。当時,松方デフレ政策の影響を受けて養蚕,製糸業を主業とする多摩,秩父地方の農家の大半は窮境に陥り,高利貸からの借金に頼らざるをえなくなった。このため,井上伝蔵ら秩父の指導者は警察や高利貸に対して請願を続けていたが,84年2月,大井憲太郎の秩父遊説を機に自由党に入党。そして,同8月秩父困民党を結成し,同郡大宮郷の顔役であった田代栄助を総裁とした。彼らは運動の目標を,借金の 10年据置き,40年賦返済,校費雑収税,村費の減免などにおき,陳情,請願を続けた。しかし,10月井上ら指導者たちは合法運動に限界を感じ,武力による目的実現へと準備を開始するにいたった。 11月1日同郡下吉田村椋神社に数千名の武装農民が結集,翌2日大宮郷を占拠した。暴動発生を知った埼玉県当局は憲兵隊派遣を要請,3日憲兵隊が出動したが,農民軍に敗れ退却。4~5日東京鎮台兵2個大隊が出動するに及んで,同5日農民軍は制圧された。事件後,田代ら7名の死刑を含め,有罪 3386名が確定した。

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

秩父事件

1884(明治17)年11月1日、秩父地方を中心に長野群馬県などの養蚕農家や自由党員数千人が、借金延納や減税などを求めて武装蜂起した。しかし、警察や軍隊を動員した明治政府によって、同月9日、鎮圧された。30人以上が戦死、警察官5人が殉職した。裁判の結果、死刑12人を含む計3821人が処罰され、うち二十数人が獄死した。

(2011-06-29 朝日新聞 朝刊 埼玉全県 2地方)

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デジタル大辞泉の解説

ちちぶ‐じけん【秩父事件】

明治17年(1884)秩父地方の農民が困民党を組織し、自由党員とともに高利貸しへの返済延長や村民税の減税などを要求して蜂起した事件。武装した1万人近い農民が高利貸しを襲撃、郡役所・警察などを占領。軍隊の出動によって鎮圧された。

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百科事典マイペディアの解説

秩父事件【ちちぶじけん】

1884年埼玉県秩父郡で自由党員と農民が蜂起(ほうき)した自由民権運動激化事件。1881年以後の経済不況と政府の財政方針の影響により,養蚕や製糸を副業とするこの地方の農家は大量に没落,高利貸の支配下におかれた。
→関連項目飯田事件井出孫六村田経芳

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世界大百科事典 第2版の解説

ちちぶじけん【秩父事件】

1884年(明治17),埼玉県秩父郡を中心に起こった農民蜂起。自由民権期の激化事件の頂点をなし,当時は〈秩父暴動〉〈秩父騒動〉といわれた。明治政府はこれを少数壮士博徒,脱監人が多数の善良な農民を教唆して起こした事件と解釈し,報道機関もその見解に従い,当時真相はわからなかった。 横浜開港以来,秩父といわず全国の平均的養蚕農家は国際商品となった生糸生産によって生活を補完したため,世界経済の動向に従って左右された。

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大辞林 第三版の解説

ちちぶじけん【秩父事件】

1884年(明治17)秩父地方の農民による大規模な武装蜂起事件。松方財政による不況に苦しんだ農民は、旧自由党左派の指導の下に井上伝蔵らを幹部として困民党を結成、田代栄助を総理として蜂起。負債の減免や地租軽減などを要求して郡役所・警察・高利貸しなどを襲撃。10日にわたる抵抗ののち、警官隊と軍隊により鎮圧された。秩父騒動。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

秩父事件
ちちぶじけん

1884年(明治17)に発生した秩父困民(こんみん)党の蜂起(ほうき)事件。秩父の山村では穀物自給が不可能で、主として生糸生産によってこれを補完していたが、1883、84年、世界不況と松方財政のデフレは商品経済を直撃したうえ、地方税の引上げ、学校・新道の開設費を伴い、農民の生活は窮迫に追い込まれた。消費金融の需給関係も働き、高利貸営業者の利子率は法外なものとなり、負債農民の破産や逃亡も続出した。1883年11月、農民の総代は郡役所に高利貸説諭の請願をしたが、受け付けられなかった。1884年になると、田代栄助(たしろえいすけ)も自由党に加入しようとし、2月、大井憲太郎の来秩を機に、没落に瀕(ひん)する中農層が20人ほど入党し、これが困民党結成の中核となると同時に、自由党盟約を農民的に読み替えた。8月になると各地で負債農民の集会が行われ、惣代(そうだい)は初めは30人ぐらいであったが、やがて100人となり、9月になると幹部は田代栄助を招請し、各村の動員組織はしだいに整っていく一方、なお請願運動や高利貸に対する返済延期の折衝を行った。
 10月下旬、万策尽きた農民は蜂起を決定し、困民党盟約を作成、これは困民救済、金貸しと交渉し承諾のないときは打毀(うちこわし)、戸長役場の書類焼却、諸税・学校費の廃止などを内容とした。同じころ大井憲太郎は蜂起阻止の説得使を派遣したが、困民党幹部は自由党の意図を乗り越えて、総意をもって11月1日の蜂起を決定した。10月31日まず風布(ふっぷ)村が蜂起し、その夜金貸し会社を襲撃し、翌1日午前中、吉田において警官隊と交戦し、午後この地方の農民を中心に下吉田(秩父市)の椋(むく)神社に結集した。竹槍(たけやり)、刀、銃が武器であった。ここで幹部は役割表を発表し、総理田代栄助、副総理加藤織平(おりへい)、会計長井上伝蔵(でんぞう)、以下二大隊、各村別小隊という編成をとり、厳しい軍律を定めた。吉田から高利貸に攻撃をかけつつ小鹿野(おがの)に進み、2日3000人をもって大宮郷(おおみやごう)(秩父市)に侵入、高利貸を襲い、富豪から募金した。官権力を一掃したが、県は内務卿(きょう)に軍隊派遣を要請し、鎮台兵、憲兵は3日には配置につき、皆野(みなの)において銃撃戦を行った。しかし4日午後に幹部は戦意を失い、田代をはじめ皆野の本陣から逃走したにかかわらず、その夜500人に近い一隊は秩父から出撃して児玉郡金屋村(本庄(ほんじょう)市)で鎮台兵と交戦して10人に余る死者を出した。一方、菊池貫平(かんぺい)の一隊は群馬に入り神流(かんな)川をさかのぼり、長駆長野県に侵入し、数百名の農民を加えて9日未明、南佐久郡の東馬流(ひがしまながし)において鎮台兵、警官隊と交戦して撃破され、14人の戦死者を出し、敗残の兵は午後八(やつ)ヶ岳山麓(さんろく)で攻撃を受けて解体した。事件の被告は秩父のみで6400人を超え、参加者は群馬、長野に及び、兇徒聚衆(きょうとしゅうしゅう)罪による死刑は7人を数えた。困民党の事件中、自由民権運動史に刻まれる最大のものであった。[井上幸治]
『井上幸治著『秩父事件』(中公新書)』

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世界大百科事典内の秩父事件の言及

【困民党】より

…1883,84年には全国的規模で農民騒擾(そうじよう)事件が頻発し,水田地帯では小作料減免や地租納期などとともに負債返済の問題がとりあげられたが,84年になると養蚕地帯で負債農民の増大,身代限りの続出のために負債返済が主要目標となった。地域の広狭にかかわらず,負債農民の集団が運動体をなすとき,各地で借金党,負債党,貧民党,困窮党,窮民党,延期党などと呼ばれたが,最大の秩父事件において当時すでに困民党の名が定着しているので,いまこれが一般化している。なかでも秩父事件,武相地方にこの概念は限定されるかにみえるが,概念の外延を拡大してもよい。…

【自由民権】より

…弾圧に憤激した激派は84年群馬事件加波山事件などを起こし,蜂起,挙兵,政府高官暗殺などの直接行動によって政府転覆を企てるに至った。そして同年11月には,不況と負債にあえぐ借金党,困民党の運動を基盤として秩父の農民が蜂起し,革命の旗を掲げて郡内を制圧するという事件(秩父事件)が起こった。激化事件としては以後,飯田事件,名古屋事件,静岡事件などが数えられるが,いずれも決行に至らずに検挙された。…

※「秩父事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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