蒲生氏(読み)がもううじ

改訂新版 世界大百科事典 「蒲生氏」の意味・わかりやすい解説

蒲生氏 (がもううじ)

平安~江戸初期の武家。鎮守府将軍藤原秀郷の次男千晴の子孫惟俊が陸奥国から上洛して平家に仕え,近江国蒲生郡を領して蒲生太郎と称したという。子俊賢は源頼朝に仕え,その後俊綱と子秀朝は足利尊氏に属して功があった。秀朝より7代目とされる貞秀とその子高郷は,近江守護佐々木六角氏に仕え,高郷の子定秀,孫賢秀は日野城主となった。賢秀は1568年(永禄11)六角氏が織田信長に滅ぼされたのち信長に属した。その子氏郷は信長・秀吉に仕え,歴戦の功により84年(天正12)伊勢松ヶ島12万石を与えられ(のち松坂に移る),90年会津黒川(若松)42万石(のち92万石)に封じられた。子秀行は98年(慶長3)下野宇都宮18万石に移り,関ヶ原の戦の功で会津60万石に復帰した。1627年(寛永4)秀行の子忠郷が死去し嗣子なく,弟忠知が伊予松山24万石(近江日野4万石を含む)に移されたが,34年忠知が死んで嗣子なく,断絶となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「蒲生氏」の意味・わかりやすい解説

蒲生氏
がもううじ

戦国~安土桃山(あづちももやま)時代に武将として活躍し、江戸初期まで大名であった近江国(おうみのくに)蒲生郡(滋賀県蒲生郡)出身の豪族。「蒲生系図」では藤原秀郷(ふじわらのひでさと)流とされているが、蒲生稲置(いなぎ)の系統とも考えられている。戦国時代には日野(ひの)音羽(おとわ)城(蒲生郡日野町)を本拠とし、近江守護六角(ろっかく)氏の重臣となっていた。1568年(永禄11)織田信長入洛(にゅうらく)に際し、当主賢秀(かたひで)は信長に降(くだ)り、子氏郷(うじさと)を人質として差し出した。氏郷は信長・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の武将として活躍し、1590年(天正18)には会津(福島県会津若松市)に封じられ、73万石を領するに至った。しかし、子秀行(ひでゆき)、孫忠郷(たださと)・忠知(ただとも)が相次いで早逝したため、1634年(寛永11)蒲生家は断絶した。

[池 享]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「蒲生氏」の意味・わかりやすい解説

蒲生氏
がもううじ

藤原姓。季俊の孫俊賢が源頼朝に仕え,近江国蒲生郡を領し,その子俊信から蒲生氏を称した。南北朝時代,秀朝が足利尊氏に従って戦功があり,戦国時代,定秀,賢秀は近江日野城に居を構え,織田信長,豊臣秀吉に仕えたが,特に賢秀の子氏郷は戦功多く,天正 12 (1584) 年伊勢松ヶ島城主,同 18年会津若松 42万石城主となった。寛永 11 (1634) 年断絶。

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