蓮台寺村(読み)れんだいじむら

日本歴史地名大系 「蓮台寺村」の解説

蓮台寺村
れんだいじむら

[現在地名]下田市蓮台寺

立野たちの村の西に位置し、中央を蓮台寺川が東流する。下田街道藤原ふじわら山越が当村から分岐し西方の大沢おおさわ村へ向かい、集落は道の両側に形成される。地名は「藤原」と称していたが、真言宗蓮台寺(現廃寺)の創建後に寺名が村名となった(稲生沢村沿革誌)。北条氏所領役帳に御馬廻衆の狩野大膳亮泰光の役高として六〇貫文「蓮台寺」とみえる。天正一八年(一五九〇)一二月の蓮台寺村御縄打水帳(伊豆下田)によると田地七町五反余・畑地二町一反余。江戸時代は初め幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本三枝領、安政三年(一八五六)幕府領下田奉行所支配となり幕末に至る(「万歳帳」野崎家文書、「韮山町史」)

蓮台寺村
れんだいじむら

[現在地名]糸魚川市蓮台寺・蓮台寺一―二丁目・押上おしあげ二丁目・東寺ひがしてら町一丁目・きようみね一―二丁目・一の宮いちのみや五丁目

糸魚川町南東、台地縁辺部にあり、北はてら町・押上村、西は一之宮いちのみや村・上苅うえかり村に接する。天正一一年(一五八三)五月一二日の御師蔵田左京亮宛直江兼続安堵状(伊勢古文書集所収文書)によれば、「追而一宮蓮台寺九間之町屋共、不可有相違者也、於糸魚川伊勢領、何之人脚成共、毎度、棟数拾間ニ相定候上者、誰人違乱候共、拾人之外被出之間敷候、并地下鑓之儀も、何方へ成共、拾人宛可被調之候」とあり、一之宮・蓮台寺の両村はこれ以前より伊勢神宮領で、従来どおり九軒の棟役銭で、軍役として人夫一〇人、槍を持った百姓兵一〇人をどこへでも出すよう定められている。

蓮台寺村
れんだいじむら

[現在地名]飯塚市蓮台寺

八木山石やきやまいし坂の東麓、蓮台寺川の水源に位置し、東は建花寺けんげいじ村。民居は本村池尻いけじりめぐいで坂下さかしたにある(続風土記拾遺)。小早川時代の指出前之帳では穂波ほなみ郡蓮台寺村の田一一町一反余(分米一三二石余)・畠一町六反余(分大豆九石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高五三〇石余、うち大豆四一石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高五三〇石余、家数二七・人数二九〇(田圃志)。石高書上帳案の郡帳高も同じ。

蓮台寺村
れんだいじむら

[現在地名]熊本市蓮台寺町・二本木にほんぎ五丁目

東と南は白川に面し、北は宮寺みやでら村・八島やしま村、西は新土河原しんとがわら村に接する。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方四四町三反余・畠方六三町五反余、分米九四九石六斗余とある。同一三年の検地帳では田方三八町八反余・畠方四三町九反余、分米八三二石六斗余で、このなかには御馬場二反三畝、二石および永荒七石五斗余が含まれ、竈数四三・家数八三、男四一・女三三、せがれ六・せんもん五・うば六と牛一八、みかん五を記載する。

蓮台寺村
れんだいじむら

[現在地名]彦根市蓮台寺町

辻堂つじどう村の西に位置。地名は蓮台寺があったことによる。慶長高辻帳に村名がみえ高三七九石余。寛文四年(一六六四)の彦根領分高帳(間塚文書)によると定免で三ツ一分。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数一七八、うち寺社方一。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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