蕨生村(読み)わらびむら

日本歴史地名大系 「蕨生村」の解説

蕨生村
わらびむら

[現在地名]美濃市蕨生

東流する板取いたどり川下流域の左岸にある山方の村。川沿いに本郷があり、背後のなか(現大師山)北側にも集落がある。北端に矢坪やつぼヶ岳(八七三・三メートル)がある。牧谷まきだに八郷の一つで、南は川を隔てて神洞かんぼら村・御手洗みたらい村、この間に当村の飛地があり、東は片知かたぢ村。枝村として伊勢洞いせほら村・浅野あさの村・矢坪村がある(明治大学刑事博物館本元禄郷帳)慶長郷帳に「わらび村」とみえ、村高一二六石余・山年貢六石余。元和五年(一六一九)幕府領から尾張藩領となり幕末に至る。正保郷帳では田高一三石余・畑高一一三石余・紙舟役七石余・山年貢一三石。明暦覚書では概高二六五石余、人数五〇七、馬四三、紙漉の多い村で、少量の銀を採掘した。

蕨生村
わらびようむら

[現在地名]大野市蕨生

九頭竜くずりゆう川と真名まな川の間、塚原野つかはらのの南部に位置し、下唯野しもゆいの村の西にある。洞雲寺寄進分田地目録(洞雲寺文書)に、永正二年(一五〇五)一一月一五日「壱石之所、在坪、蕨生郷内中野村ふか田」と郷名がみえる。高山専福寺之記(専福寺文書)によると、正長元年(一四二八)にかつて中据なかしがらみ村にあった専福せんぷく寺が当地に再興されたという。

正保郷帳によると、田方五九二石余・畠方一七〇石余。枝村に大中野おおなかの上唯野うわゆいのがあった(越前国名蹟考)。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領。

蕨生村
わらびおむら

[現在地名]松野町蕨生

吉野よしの川下流域に位置し、西は吉野村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「蕨生村 深山つゝき、柴山有、川有」と村名がみえる。その北東部には戸祇御前とぎごぜん(九四六メートル)などの山系があるので、これらを深山と称したのであろう。吉田藩領。

太閤検地石高は七一八石三升で、正保検地では七九一石八斗五升となっている。

「吉田古記」によると当村の寿福山甘露院妙楽みようらく寺は真言宗で、京都の御室仁和おむろにんな寺の末寺であった。同寺所管の薬師堂について同書に「楳之薬師堂一宇、爰に三角と云山伏守之」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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