藤代村(読み)ふじしろむら

日本歴史地名大系 「藤代村」の解説

藤代村
ふじしろむら

[現在地名]藤代町藤代

小貝こかい川南岸に所在。水戸街道の街村で、東の片町かたまち村・宮和田みやわだ村とともに藤代宿を形成した(→藤代宿。相馬二万石の一部で、古くは冨士代ふじしろ村と称した。寛永八年(一六三一)の相馬谷新田開発免許状写(国立史料館蔵飯田家文書)によれば関東郡代伊奈忠治は「冨士代」の惣五郎宛に「今度相馬谷原新田情ニ入発候、就御奉公申為屋敷分谷原五反歩永出シ候間発候作可仕候、弥新田情ニ入発候様ニ可致□□覚者也、仍如件」と、新田開発の功として五反歩を与えた。「寛文朱印留」には「藤代村」とみえ、下総佐倉藩領。貞享四年(一六八七)・元禄七年(一六九四)には土浦藩領であったが、元禄一二年・正徳二年(一七一二)・享保二年(一七一七)の領知目録にはみえない。


藤代村
ふじしろむら

[現在地名]弘前市藤代

東は岩木川に面し、北は鳥町ちようぢよう村、南は駒越こまごし(現中津軽郡岩木町)と接する。

津軽一統志」によれば、寛文一〇年(一六七〇)四代藩主津軽信政が、村内に稲荷神社を建立し祈願所としたとある。「青森県租税誌」によれば、当初下駒越村と称したともいわれるが、定かでない。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、村高八二八・〇七四石、うち田方七九四・四五二石、畑方三三・六二二石、田方の位付は上々田から下々田まで設定され、上田中田が田方の七五パーセントを占める。


藤代村
ふじしろむら

[現在地名]池田町藤代

田畑たばた村の南西に位置し、西は霞間かまたに。天正一七年(一五八九)一一月二一日付豊臣秀吉の美濃国御蔵入目録(内閣文庫蔵)に「ふちしろ」三四七石余とある。慶長二年(一五九七)の池田野山年貢割帳(阿子田文書)には藤代村とあり、入会山への立入馬数は大谷おおたに山に三匹、霞間ヶ渓山に五匹。慶長郷帳には藤城村とみえ、高三五〇石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では松平忠良(大垣藩)領。正保郷帳では尾張藩領で、田二九六石余・畑四四石余・山年貢三石余、ほかに小物成として山札米四斗余があった。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳には高二六六石余とあり、相給であったものか。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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