藤原内麻呂(読み)ふじわらのうちまろ

改訂新版 世界大百科事典 「藤原内麻呂」の意味・わかりやすい解説

藤原内麻呂 (ふじわらのうちまろ)
生没年:756-812(天平勝宝8-弘仁3)

奈良末~平安初期の官人。房前(ふささき)の孫,真楯の第3子。長岡,愛発(ちかなり),大津,衛,助,緒夏らの父。ほかに《尊卑分脈》《公卿補任》によると真夏,冬嗣らの父。《公卿補任》によると794年(延暦13)10月参議,798年8月中納言,806年(大同1)4月大納言(《日本後紀》にもみえる),翌月右大臣に昇った。この間,《延暦交替式》によると同式の編纂検校として関係し,《弘仁格式序》によると,同格式の編纂にも関与したとある。812年10月,没した時は右大臣従二位であった。
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朝日日本歴史人物事典 「藤原内麻呂」の解説

藤原内麻呂

没年:弘仁3.10.6(812.11.13)
生年天平勝宝8(756)
平安前期の公卿。大納言真楯と阿倍帯麻呂の娘の子。後長岡大臣と号す。右衛士督,近衛大将などを歴任して中納言となり,延暦18(799)年和気清麻呂没後,造宮大夫を兼任し,同24年12月平安京の造営が停止されるまでその任にあった。大同1(806)年右大臣に任じられ首班となる。皇太子他戸親王(のち廃太子)が暴れ馬に内麻呂を乗せ,これを振り落とさせようとしたところ,馬はただ頭をたれて回るだけでこれを見た人々に「非常の器」と評されたという(『日本後紀』)。また天皇から下問されてもことさら気に入るような返答はせず,といって受け入れられなくても不快感を表すこともなかったといい,度量の大きな人物であったことが知られる。なお興福寺に安置される不空羂索観音,四天王像は彼の発願

(瀧浪貞子)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原内麻呂」の解説

藤原内麻呂 ふじわらの-うちまろ

756-812 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8年生まれ。北家藤原真楯の3男。母は阿倍帯麻呂の娘。延暦(えんりゃく)13年(794)参議。大同(だいどう)元年(806)右大臣,4年従二位となる。温雅信望があり,十余年枢機にあずかって誤りはなかったという。後長岡大臣と称される。弘仁(こうにん)3年10月6日死去。57歳。贈従一位左大臣。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原内麻呂」の意味・わかりやすい解説

藤原内麻呂
ふじわらのうちまろ

[生]天平勝宝8(756)
[没]弘仁3(812).10.6.
奈良,平安時代初期の公卿。大納言真楯の子。延暦 13 (794) 年参議,その後,右大臣,従二位にいたる。性格が温雅で,三代の天皇 (桓武,平城,嵯峨) に仕えて過誤がなかったという。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原内麻呂の言及

【藤原氏】より

…日本の代表的な貴族。大化改新後の天智朝に中臣氏から出て,奈良時代には朝廷で最も有力な氏となり,平安時代に入るとそのなかの北家(ほくけ)が摂政や関白を独占し歴代天皇の外戚となって,平安時代の中期は藤原時代ともよばれるほどに繁栄した。鎌倉時代からはそれが近衛(このえ)家二条家一条家九条家鷹司(たかつかさ)家の五摂家に分かれたが,以後も近代初頭に至るまで,数多くの支流を含む一族全体が朝廷では圧倒的な地位を維持し続けた。…

※「藤原内麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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