藤原忠文(読み)ふじわらのただふみ

精選版 日本国語大辞典 「藤原忠文」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ただふみ【藤原忠文】

平安中期の公卿参議民部卿。承平・天慶の乱で、征東大将軍征西大将軍に任ぜられたが、その功に恩賞が与えられなかったのを藤原実頼の言のためとし、それを深くうらんで死後も実頼の子女に祟ったといわれる。そのことから悪霊民部卿といわれた。貞観一五~天暦元年(八七三‐九四七

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デジタル大辞泉 「藤原忠文」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐ただふみ〔ふぢはら‐〕【藤原忠文】

[873~947]平安中期の公卿。民部卿。平将門の乱では征東大将軍、藤原純友の乱では征西大将軍に任ぜられたが、その功に恩賞が与えられなかったのは藤原実頼反対のためと恨み、死後も実頼の子女にたたったといわれ、悪霊民部卿の異名がある。

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朝日日本歴史人物事典 「藤原忠文」の解説

藤原忠文

没年:天暦1.6.26(947.7.16)
生年:貞観15(873)
平安中期の公卿。宇治に所領があり,宇治民部卿と称す。参議枝良の3男。母は息長氏の娘。摂津,丹波守などの地方官を歴任し,天慶2(939)年67歳で参議。翌年,平将門追討のため征東大将軍に任じられ東国へ下向したが,到着以前に将門は鎮圧され空しく帰京。そのため恩賞にあずからず,恩賞にかかわった藤原実頼を怨み,死後悪霊となってその子女に祟ったと伝える。藤原純友の乱では征西大将軍となって西下し,この鎮定には成功した。宇治の富家殿で鷹を飼養し,宇治川で洗髪するなどの逸話が『江談抄』ほかにみえる。末多武利神社(宇治市)に祭られている。

(朧谷寿)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原忠文」の解説

藤原忠文 ふじわらの-ただふみ

873-947 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
貞観(じょうがん)15年生まれ。藤原枝良の3男。母は息長(おきなが)氏。天慶(てんぎょう)2年(939)参議。平将門(まさかど)の乱で征東大将軍,藤原純友(すみとも)の乱で征西大将軍となるが,いずれも活躍の場はなかった。民部卿をかね,宇治民部卿と称される。正四位下。天暦(てんりゃく)元年6月26日死去。75歳。贈正三位中納言。恩賞に反対した藤原実頼をうらみ,その子女にたたったという。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原忠文」の意味・わかりやすい解説

藤原忠文
ふじわらのただふみ

[生]貞観15(873)
[没]天暦1(947).6.26.
平安時代の廷臣。参議,正四位下。没後に正三位が贈られ,宇治民部卿と称された。天慶3 (940) 年征東大将軍として平将門の乱平定に下向したが,途中将門の誅されたのを聞き京に帰った。次いで翌年征西将軍に任じられ,藤原純友討伐に従っている。 (→承平・天慶の乱 )

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