平安中期の廷臣。関白忠平の長子。母は宇多皇女源順子(源能有の女昭子とも伝える)。915年(延喜15)叙爵,右近衛権少将・中将,蔵人頭等を経て,931年(承平1)参議,934年中納言,その間右衛門督,検非違使別当を兼ね,938年(天慶1)右近衛大将を兼任,翌年大納言,944年右大臣,翌年左近衛大将兼任,947年(天暦1)左大臣と累進した。967年(康保4)村上天皇が没し,皇子憲平親王(冷泉)が践祚すると,彼は関白の詔をうけ,同年太政大臣に昇った。969年(安和2)には左大臣源高明が失脚(安和の変)し,同年天皇は弟守平親王(円融)に譲位,実頼は摂政となったが翌年に没した。諡(おくりな)は清慎公。小野宮殿と称せられた。彼は一門の長老として最高の官位を極めたが,天皇の外戚として栄えたのは右大臣で没した弟の師輔の一家であった。謹直な性格で,また父より受けた儀礼,先例に詳しく,小野宮流の故実の祖となる。日記は《清慎公記》《水心記》等と呼ばれるが散逸している。
執筆者:黒板 伸夫
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(瀧浪貞子)
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平安中期の公卿(くぎょう)。摂政(せっしょう)忠平(ただひら)の三男。母は宇多(うだ)天皇皇女源順子(右大臣源能有(よしあり)の女(むすめ)昭子ともいう)。右大臣、左大臣を経て967年(康保4)冷泉(れいぜい)天皇の関白、ついで太政(だいじょう)大臣、969年(安和2)円融(えんゆう)天皇の摂政となり、翌天禄(てんろく)元年5月18日没した。死後正一位を贈られ尾張(おわり)国に封ぜられ、諡(おくりな)を清慎公(せいしんこう)という。小野宮(おののみや)に住み小野宮殿とよばれた。関白当時の969年、左大臣源高明(たかあきら)を失脚させ、藤原氏の優位を決定的にする安和(あんな)の変が起こるが、彼自身は直接関与しなかったらしい。謹厳な人柄で有職故実(ゆうそくこじつ)に通じ、彼がまとめた儀式作法の流儀は小野宮流と称された。日記『清慎公記』(水心記)は逸文のみ伝わる。
[吉田早苗]
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900~970.5.18
小野宮殿とも。平安中期の公卿。諡は清慎公。九条流と並ぶ小野宮流の祖。忠平の長男。実資の養父。915年(延喜15)従五位下。931年(承平元)参議,947年(天暦元)左大臣,967年(康保4)冷泉朝の関白・太政大臣。翌々年(安和2)円融朝の摂政となったが,外戚でないため無力。没後に正一位を贈られ,尾張国に封じられる。日記「水心記」は散逸。家集「清慎公集」。
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…もと文徳天皇皇子の惟喬(これたか)親王の邸があり,彼が小野親王と呼ばれたところから小野宮の名がついた。その後,摂関藤原実頼の領するところとなり,このため実頼の系統を小野宮家と称し,九条家(流)と対比された。実頼からこの家を伝領したのは養子(実は孫)の藤原実資(さねすけ)であった。…
…藤原氏小野宮流の年中行事の儀式作法を説明し,有職関係のことなどをあわせ記した書物。1巻。著者は藤原実資。実頼(実資の養父)と師輔の兄弟は,父忠平の教命を受けて,それぞれ小野宮流,九条流の有職を確立した。実頼は日記《清慎公記(水心記)》以外にとくに行事に関する書物は作らなかったため,実頼の儀礼を小野宮流として完成させたのは実資の本書である。《弘仁式》《貞観式》をはじめ,多くの日記類等を引用するが,そのなかには現在散逸して伝わらぬ書も少なくない。…
※「藤原実頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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