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藤原実頼 ふじわらのさねより

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原実頼
ふじわらのさねより

[生]昌泰3(900).京都
[没]天禄1(970).5.18. 京都
平安時代中期の廷臣。忠平の長男。母については宇多天皇皇女源傾子,あるいは右大臣源能有の娘昭子の2説がある。天慶7 (944) 年右大臣,天暦1 (947) 年左大臣となり,同3年父忠平の死去によって朝廷で首席の座についた。康保4 (967) 年冷泉天皇践祚によって関白となり,安和2 (969) 年安和の変によって左大臣源高明らを退け,貴族社会での藤原氏の覇権を確立した。同年円融天皇の践祚とともに摂政天禄1 (970) 年太政大臣となった。惟喬 (これたか) 親王家を受継ぎ小野宮殿と呼ばれ,没後正一位が追贈され,清慎公と諡 (おくりな) された。朝儀に練達し,有職故実小野宮流の祖となった。著書『小野宮故実旧例』,日記『水心記』がある。

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デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐さねより〔ふぢはら‐〕【藤原実頼】

[900~970]平安中期の公卿。忠平の子。小野宮殿と称された。円融天皇の摂政に就任。有職(ゆうそく)故実に詳しく、小野宮流の始祖。著に有職故実書「小野宮故実旧例」、歌集「清慎公集」。日記「水心記」があったが散逸。

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百科事典マイペディアの解説

藤原実頼【ふじわらのさねより】

平安中期の高官。忠平(ただひら)の子。969年安和(あんな)の変後,円融天皇の摂政。以来摂政・関白は常置の官となる。有職故実(ゆうそくこじつ)に詳しく,小野宮(おののみや)流の故実始祖。
→関連項目円融天皇藤原伊尹

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原実頼 ふじわらの-さねより

900-970 平安時代中期の公卿(くぎょう)。
昌泰(しょうたい)3年生まれ。藤原忠平の長男。母は源順子承平(じょうへい)元年(931)参議。左大臣をへて康保(こうほう)4年(967)冷泉(れいぜい)朝の関白,太政大臣,ついで円融朝の摂政となる。居宅名から小野宮殿とよばれ,儀式作法小野宮流の祖。歌人で,管弦の名人でもあった。天禄(てんろく)元年5月18日死去。71歳。贈正一位。諡(おくりな)は清慎公。家集に「清慎公集」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原実頼

没年:天禄1.5.18(970.6.24)
生年:昌泰3(900)
平安中期の公卿。藤原忠平と宇多天皇の娘源順子の子。右大臣,左大臣を経て,康保4(967)年冷泉天皇の即位により関白太政大臣,次いで安和2(969)年円融天皇の摂政となり,以後摂政,関白が常置される先例となった。ただしこの間,外戚の地位を得た弟師輔の実力に脅かされ,「一(左大臣実頼のこと)くるしき二(右大臣師輔のこと)」などと噂された。惟喬親王の屋敷小野宮邸を購入したので小野宮殿と呼ばれ,以後この流れを小野宮家という。背が低かったからか,強装束を用い,また塀に穴をあけて菓子(果物)を置き,そこに集まる人たちの雑談を聞いて世情を知ったという話は有名である(『富家語』)。家集『清慎公集』,日記『清慎公記』(『水心記』『小野宮殿記』とも)がある。時平の娘との間に敦敏,頼忠,斉敏をもうけ,斉敏の子実資を養子とした。娘慶子,述子は朱雀女御,村上女御となった。

(瀧浪貞子)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのさねより【藤原実頼】

900‐970(昌泰3‐天禄1)
平安中期の廷臣。関白忠平の長子。母は宇多皇女源順子(源能有の女昭子とも伝える)。915年(延喜15)叙爵,右近衛権少将・中将,蔵人頭等を経て,931年(承平1)参議,934年中納言,その間右衛門督,検非違使別当を兼ね,938年(天慶1)右近衛大将を兼任,翌年大納言,944年右大臣,翌年左近衛大将兼任,947年(天暦1)左大臣と累進した。967年(康保4)村上天皇が没し,皇子憲平親王(冷泉)が践祚すると,彼は関白の詔をうけ,同年太政大臣に昇った。

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのさねより【藤原実頼】

900~970) 平安中期の廷臣。摂政・関白。忠平の子。小野宮殿と称。諡号しごう、清慎公。安和の変によって左大臣源高明を失脚させ、藤原氏繁栄の基礎をつくった。有職小野宮流の祖。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原実頼
ふじわらのさねより
(900―970)

平安中期の公卿(くぎょう)。摂政(せっしょう)忠平(ただひら)の三男。母は宇多(うだ)天皇皇女源順子(右大臣源能有(よしあり)の女(むすめ)昭子ともいう)。右大臣、左大臣を経て967年(康保4)冷泉(れいぜい)天皇の関白、ついで太政(だいじょう)大臣、969年(安和2)円融(えんゆう)天皇の摂政となり、翌天禄(てんろく)元年5月18日没した。死後正一位を贈られ尾張(おわり)国に封ぜられ、諡(おくりな)を清慎公(せいしんこう)という。小野宮(おののみや)に住み小野宮殿とよばれた。関白当時の969年、左大臣源高明(たかあきら)を失脚させ、藤原氏の優位を決定的にする安和(あんな)の変が起こるが、彼自身は直接関与しなかったらしい。謹厳な人柄で有職故実(ゆうそくこじつ)に通じ、彼がまとめた儀式作法の流儀は小野宮流と称された。日記『清慎公記』(水心記)は逸文のみ伝わる。[吉田早苗]

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世界大百科事典内の藤原実頼の言及

【小野宮】より

…もと文徳天皇皇子の惟喬(これたか)親王の邸があり,彼が小野親王と呼ばれたところから小野宮の名がついた。その後,摂関藤原実頼の領するところとなり,このため実頼の系統を小野宮家と称し,九条家(流)と対比された。実頼からこの家を伝領したのは養子(実は孫)の藤原実資(さねすけ)であった。…

【小野宮年中行事】より

…藤原氏小野宮流の年中行事の儀式作法を説明し,有職関係のことなどをあわせ記した書物。1巻。著者は藤原実資。実頼(実資の養父)と師輔の兄弟は,父忠平の教命を受けて,それぞれ小野宮流,九条流の有職を確立した。実頼は日記《清慎公記(水心記)》以外にとくに行事に関する書物は作らなかったため,実頼の儀礼を小野宮流として完成させたのは実資の本書である。《弘仁式》《貞観式》をはじめ,多くの日記類等を引用するが,そのなかには現在散逸して伝わらぬ書も少なくない。…

※「藤原実頼」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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