古代~中世,西国とくに九州を平定するため臨時に任命された将軍。その役所を征西将軍府と呼ぶ。《続日本紀》養老4年(720)7月の条に征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人のことを征西将軍と称したのが初見史料であるが,その後,941年(天慶4)藤原純友の乱を平定するため藤原忠文を征西大将軍に任じ,その下に副将軍,軍監などを配した。
以来久しく征西将軍府は設置されなかったが,後醍醐天皇は九州地方における南朝勢力の拡大を意図し,1338年(延元3・暦応1)皇子懐良(かねよし)親王を征西将軍に任じ下向させた。親王は五条頼元以下少数の従者を率いて42年(興国3・康永1)5月1日薩摩国に上陸し,征西将軍宮と称された。親王は薩摩国谷山郡(現,鹿児島市)の谷山城を本拠として谷山御所と称し,肥後国の菊池氏,阿蘇氏をはじめ南朝支持勢力の組織化に努めた。親王の先発として肥後に入っていた中院義定は菊池氏の軍勢を率いて筑後国に進出し,大宰府攻略を意図したが,九州管領(九州探題)一色道猷(範氏)の反撃によって失敗し,後退した。そこで南朝勢力の組織化の拡大と確立を意図した征西将軍宮は滞在約5年に及んだ谷山御所を発し,水路宇土(うと)(現,熊本県の旧宇土郡)に上陸し,御船城(現,同県上益城郡御船町)を経て43年1月菊池城(現,同県菊池市)に入り本拠とした。そして征西将軍宮は菊池氏の軍勢を率いて再び筑後地方に進出し,これを迎え撃った一色道猷との間で激戦が展開された。
このようなとき,49年(正平4・貞和5)9月足利尊氏の庶長子足利直冬が下向したことによって,征西将軍宮,道猷,直冬3者の勢力が鼎立することになった。はじめ征西将軍宮は直冬と協力して道猷を挟撃していたが,尊氏が一時南朝方と和議を結んだことにより征西将軍宮と道猷との協力関係が生まれて,直冬は孤立して軍事的に窮地に追い込まれ,九州滞在3年余の52年(正平7・文和1)11月中国地方に脱出した。道猷も55年10月九州を離れ,しだいに征西将軍宮支持勢力は強大となり,将軍宮は59年(正平14・延文4)8月の筑後国大保原の戦で少弐頼尚を破り,61年(正平16・康安1)8月には大宰府を占拠し菊池武光とともに九州各地を転戦し,全九州を席巻する勢いを示した。しかし九州探題に任命されて下向してきた今川了俊によって72年(文中1・応安5)大宰府を追われ,筑後国高良山(こうらさん)(現,福岡県久留米市)に退いたが,武光の戦死で衰退の一途をたどり,筑後国八女郡黒木,星野(現,同県八女市の旧黒木町,旧星野村)の山間部に拠点を移し,抵抗を継続することになった。
このような状況下,征西将軍職はかねて九州に下向していた後村上天皇の皇子良成(よしなり)親王に譲られた。その時期については大宰府を脱出した直後の72年説,74年説,75年(天授1・永和1)説などがあるが明確ではない。この良成親王のことを後征西将軍宮と称する。後征西将軍宮は菊池武朝に奉ぜられて菊池に征西将軍府を移したが,81年(弘和1・永徳1)了俊の攻撃を受けて菊池城を脱出し,宇土,川尻(現,熊本市),八代(現,八代市),筑後国矢部(現,八女郡矢部村)などを転々とし,南北朝合一後応永年間(1394-1428)筑後国で没したれているが詳細は不明。良成親王の没後,征西将軍職に補任された者はいない。
執筆者:瀬野 精一郎
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西国の反乱平定のため天皇が節刀(せっとう)を与え派遣した将軍。720年(養老4)の征隼人持節大将軍大伴旅人(たびと)は征西将軍とよばれ,941年(天慶4)5月藤原純友の乱に際し藤原忠文(ただふみ)を征西大将軍に任命した。しかし一般には南北朝期に,九州の宮方勢力の結集のために設置された征西府の長官として後醍醐天皇が派遣した懐良(かねよし)親王をいう。菊池氏ら南朝勢力に推戴され,一時期幕府勢を駆逐し,大宰府を拠点に九州を制圧した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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