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藤原高光 ふじわらの たかみつ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原高光 ふじわらの-たかみつ

?-994 平安時代中期の歌人。
藤原師輔(もろすけ)の8男。母は雅子内親王。応和元年(961)右近衛(うこんえの)少将のとき,比叡山(ひえいざん)で出家。多武峰(とうのみね)に庵をむすんだ。歌物語「多武峯少将物語」はこの名門貴公子の出家を題材とする。三十六歌仙のひとりで,「拾遺和歌集」以下の勅撰集に23首。正暦(しょうりゃく)5年3月10日死去。法名は如覚。家集に「高光集」。
【格言など】秋風にみだれて物はおもへども萩の下葉の色はかはらず(「新古今和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原高光

没年:正暦5.3.10(994.4.23)
生年:生年不詳
平安時代の官人,歌人。三十六歌仙ひとり多武峰少将と号す。法名如覚。道号寂真。藤原師輔醍醐天皇皇女雅子の子。没年月日は『多武峰略記』によるが,康保4年8月15日(967.9.21,『談峰縁起便蒙』),寛和1(985)年以前,との説もある。右近衛少将などに任ぜられ,天暦3(949)年尚書竟宴の折に出詠するなど歌才を発揮した。応和1(961)年比叡山横川で出家,翌年藤原氏の祖廟地である多武峰に移り草庵を結んだ。『多武峰少将物語』は彼の出家を題材にするが,残された妻や彼の妹の愛宮の悲嘆には胸を打たれる。家集に『高光集』がある。<参考文献>山口博『王朝歌壇の研究/村上・冷泉・円融朝篇』

(青木賜鶴子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのたかみつ【藤原高光】

941‐994(天慶4‐正暦5)
平安前期の歌人。法名如覚。右大臣藤原師輔の八男。母は醍醐天皇皇女雅子。955年(天暦9)11月叙爵,960年(天徳4)右近衛少将,翌年従五位上に叙せられたが,961年(応和1)12月比叡山横川で突然出家,翌年8月多武峰(とうのみね)にこもり増賀上人について修行に専念,極楽房と称し多武峰上人と讃えられた。《拾遺和歌集》以下の勅撰集に23首入集。《高光集》がある。《多武峰少将物語》は出家前後における近親者の悲嘆を中心にまとめた歌物語である。

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世界大百科事典内の藤原高光の言及

【多武峰少将物語】より

…10世紀後半に成立。右大臣藤原師輔の八男右少将藤原高光は961年(応和1)比叡山で出家し,後に大和の多武峰にこもったが,その出家前後から翌年5月ころまでのことを高光の妻と妹(愛宮(あいみや))の悲嘆を中心につづったもの。歌物語的家集ともいうべき形態の作品で,日記文学としても注目される。…

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