出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
	
    
  
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                    藤原高藤 (ふじわらのたかふじ)
生没年:838-900(承和5-昌泰3)
        
              
                        平安前期の公卿。左大臣冬嗣の孫で,内舎人良門の男。勧修寺(かじゆうじ)一流の祖(勧修寺家)。865年(貞観7)蔵人となり,禁色の衣服着用を許され,ついで左近衛少将,兵部大輔等を歴任し,893年(寛平5)女の胤子の生んだ敦仁親王(醍醐天皇)が皇太子となるに及び,翌年従三位に昇り,以後累進して,900年ついに内大臣に任ぜられた。この内大臣は約120年ぶりに復活された令外官(りようげのかん)で,天皇の外祖父優遇の処置であるが,本来の内臣と密着した内大臣とは異なり,たんに右大臣に次ぐ地位と化した。勧修寺内大臣とも称する。
執筆者:橋本 義彦
 
    
        
    出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
	
    
  
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                    藤原高藤 ふじわらの-たかふじ
        
              
                        838-900 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
承和(じょうわ)5年生まれ。藤原良門の次男。母は高田沙弥麻呂の娘春子。宇多天皇女御(にょうご)となった娘の胤子が醍醐(だいご)天皇を生み,外戚として昇進。寛平(かんぴょう)6年(894)従三位,7年参議。昌泰(しょうたい)3年内大臣となった。勧修寺(かじゅうじ)家の祖で,小一条内大臣,勧修寺内大臣とよばれた。昌泰3年3月12日死去。63歳。贈正一位太政大臣。
                                                          
     
    
        
    出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
	
    
  
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		世界大百科事典(旧版)内の藤原高藤の言及
    		
      【勧修寺家】より
        
          
      …中世の文献には〈くわんしゆし〉とも表記する。醍醐天皇の外祖父内大臣[藤原高藤]を始祖とする。高藤の男右大臣定方の建てた京都山科の[勧修寺](かんしゆうじ)を一門の氏寺とし,一門中官位第一の者を長者として結束したので,この寺号が一門の総称となった。…
      
     
         ※「藤原高藤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。 
        
    出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
	
    
  
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