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藤原高藤 ふじわらの たかふじ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原高藤 ふじわらの-たかふじ

838-900 平安時代前期の公卿(くぎょう)。
承和(じょうわ)5年生まれ。藤原良門の次男。母は高田沙弥麻呂の娘春子。宇多天皇女御(にょうご)となった娘の胤子が醍醐(だいご)天皇を生み,外戚として昇進。寛平(かんぴょう)6年(894)従三位,7年参議。昌泰(しょうたい)3年内大臣となった。勧修寺(かじゅうじ)家の祖で,小一条内大臣,勧修寺内大臣とよばれた。昌泰3年3月12日死去。63歳。贈正一位太政大臣

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原高藤

没年:昌泰3.3.12(900.4.13)
生年:承和5(838)
平安前期の公卿。内舎人良門と 西市正高田沙弥麻呂の娘春子の子。左大臣冬嗣の孫。宇治郡大領宮道弥益の娘列子と結婚,この妻との出会いは狩に出かけて雨宿りをしたのがきっかけといい,そのエピソードが『今昔物語』などに収められている。その後娘の胤子が宇多天皇の女御となり,敦仁親王(のちの醍醐天皇)を生み外祖父となったことから,親王の立太子前後から急速に昇進し,昌泰2(899)年大納言,翌年内大臣となったが2カ月後に没。岳父弥益の邸跡に勧修寺(京都市山科区)を建立したことから(胤子が建立して高藤を祭ったとも)勧修寺内大臣と号され,のちにこの一流は勧修寺家と呼ばれた。墓は小野墓と称され,勧修寺の南西,鍋岡山の山頂にあるのがそれと伝える。

(瀧浪貞子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのたかふじ【藤原高藤】

838‐900(承和5‐昌泰3)
平安前期の公卿。左大臣冬嗣の孫で,内舎人良門の男。勧修寺(かじゆうじ)一流の祖(勧修寺家)。865年(貞観7)蔵人となり,禁色の衣服着用を許され,ついで左近衛少将,兵部大輔等を歴任し,893年(寛平5)女の胤子の生んだ敦仁親王(醍醐天皇)が皇太子となるに及び,翌年従三位に昇り,以後累進して,900年ついに内大臣に任ぜられた。この内大臣は約120年ぶりに復活された令外官(りようげのかん)で,天皇の外祖父優遇の処置であるが,本来の内臣と密着した内大臣とは異なり,たんに右大臣に次ぐ地位と化した。

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世界大百科事典内の藤原高藤の言及

【勧修寺家】より

…中世の文献には〈くわんしゆし〉とも表記する。醍醐天皇の外祖父内大臣藤原高藤を始祖とする。高藤の男右大臣定方の建てた京都山科の勧修寺(かんしゆうじ)を一門の氏寺とし,一門中官位第一の者を長者として結束したので,この寺号が一門の総称となった。…

※「藤原高藤」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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