日本歴史地名大系 「藤野村」の解説 藤野村ふじのむら 鹿児島県:鹿児島郡桜島町藤野村[現在地名]桜島町藤野武(たけ)村の東隣に位置する。明徳四年(一三九三)六月二六日の慶本奉書(旧記雑録)に「向島西方内藤野村名頭職」とみえ、島津元久が藤崎刑部九郎に藤野村名頭職を宛行ったとみられる。天文八年(一五三九)島津貴久は樺山幸久(善久・玄佐)に松浦(まつうら)・二俣(ふたまた)を与えたが、その後、代りに当地が与えられたものとみられる(樺山玄佐自記)。元亀二年(一五七一)肝付・伊東・伊地知・根占各氏の連合軍が鹿児島・桜島を襲撃した際、島津家久(貴久の子)が藤野村に陣を構えた。家久は当地で滝ヶ水(現鹿児島市竜ヶ水)から桜島の瀬戸(せと)村(現同上)へ撤退する肝付方の軍船を遠望し、瀬戸村へ兵を進め肝付方を攻撃した(「長谷場越前自記」旧記雑録)。 藤野村ふじのむら 岡山県:和気郡和気町藤野村[現在地名]和気町藤野金剛(こんごう)川と南流してきた日笠(ひかさ)川の合流点にある。古代の和気郡藤野郷(和名抄)の遺称地。「続日本紀」延暦七年(七八八)六月七日条によって、同郷に郡衙および山陽道藤野駅が置かれていたことが知られ、郡衙は現在の「和気氏政庁跡」の碑が建つ地域に比定されている。中世には一帯に藤野保が成立していた。慶長一八年(一六一三)の和気郡御勘定帳に村名がみえ、物成二五五石余、夫米一五石余。寛永備前国絵図では高六〇九石余。 藤野村ふじのむら 静岡県:磐田市藤野村[現在地名]磐田市藤上原(ふじかんばら)樋口(ひぐち)村の西、磐田原台地北部にある。豊田(とよだ)郡に属する。見取(みどり)村(現袋井市)百姓により開発された新田。明暦二年(一六五六)の掛塚藩による検地時か(掛川誌稿)、それ以前に見取村から分立したと考えられる。寛文一三年(一六七三)の向笠原新畑検地帳(鮫島家文書)があり、当初向笠原(むかさばら)新畑として開発され、のち上原(かんばら)村・東原(ひがしばら)村などに分れたものか。同検地帳によると、反別六町四反余、うち中畑一町余・下畑四町四反余・屋敷九反余、高二二石余。 藤野村ふじのむら 石川県:七尾市藤野村[現在地名]七尾市藤野町石動(せきどう)山系下の邑知(おうち)地溝帯に展開する村で、府中(ふちゆう)村の南にある。正保郷帳に村名がみえ、古府(ふるこ)村と一括して高付される。承応二年(一六五三)の高一〇八石(「郷村高辻帳」鹿島郡誌)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一一四石、免五ツ、小物成は鳥役一匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。天明六年(一七八六)の高一一五石余、免五ツ、家数一〇・人数五七、馬九。大豆六石・小豆一石・大麦八石・小麦七斗・たばこ六〇斤・菜種三石・麻苧三貫目・綿五貫目・布一〇反・木綿二〇反などを生産(「村鑑」加越能文庫)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by