藺牟田村(読み)いむたむら

日本歴史地名大系 「藺牟田村」の解説

藺牟田村
いむたむら

[現在地名]答院町藺牟田

後川内うしろごち川最上流の小盆地一帯にある。東から南東千貫せんがん岳を中心とする峰々を境にして大隅国始羅しら蒲生かもう西浦にしうら村・白男しらお(現蒲生町)、西は藺牟田池外輪の山々を境にして山崎やまさき久富木くぶき(現宮之城町)入来いりき浦之名うらのみよう(現入来町)、南は入来副田そえだ(現同上)、北は大村おおむら下手しもで村・上手村。伊牟田・井牟田とも記される。地名は西部に位置する小火口湖藺牟田池に由来すると伝え、古来同池の牟田状になった沼地には藺草が繁茂していたという答院町史)。中世にはけどう院のうちで、寛正五年(一四六四)の平徳重覚書(町田氏正統系譜)によれば、享徳元年(一四五二)九月一日、時吉ときよし(現宮之城町)あな川口から始められた島津氏による答院の検田は、一〇月二〇日までの間に「藺牟田・長野まて」済んだとみえる。応永年間(一三九四―一四二八)頃には渋谷氏系答院氏七代延重の次男重基が藺牟田を領し、藺牟田城に居城し藺牟田氏を称したという。藺牟田城は別名弦掛つるかけ城ともいい、南東浦の川内うらのかわち城跡がある(「三国名勝図会」など)。文明一七年(一四八五)二月二〇日、島津忠廉軍勢答院氏方の守る藺牟田城を攻撃、一族の久富木氏は遠見岡とおみがおか大村氏は東尾ひがしのおに兵を出して城を援護したが一時の間に落城し、守将斑目右京亮・蓑毛五郎右衛門尉らが討死した(「島津忠昌譜」旧記雑録、「文明記」「西藩野史」など)

藺牟田村
いむたむら

[現在地名]鹿島村藺牟田

下甑しもこしき島北端に位置し、東・西は東シナ海に面し、南は甑島こしきじま列島最高峰の(六〇四・三メートル)分水嶺長浜ながはま(現下甑村)、北は藺牟田瀬戸を隔てて中甑島の平良たいら(現上甑村)に対する。元禄国絵図によれば手打てうち(現下甑村)まで五里二町二八間。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では下甑島のうち。元禄国絵図には下甑村のうちとして伊牟田村とみえる。「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高五三石余。旧高旧領取調帳では高五七石余。伊能忠敬の「九州東海辺沿海村順」では家数二六七。文化三年(一八〇六)改の諸浦御奉公並万上納物定(列朝制度)では当村、片野浦かたのうら村・青瀬あおせ村・長浜村(現下甑村)四村の浦水手役六一人立・雇水手役一三五人立で、漁師銀は課されていなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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