蜷川村(読み)にながわむら

日本歴史地名大系 「蜷川村」の解説

蜷川村
にながわむら

[現在地名]久留米市大橋町蜷川おおはしまちにながわ

筑後川中流左岸に沿う。上三郡絵図によると当村西部で筑後川が南に大きく湾曲し、川中には「掘替新川筋、御井郡堰ヨリ小瀬川出迄六百弐拾壱間」と注記され、その新川の東側に八〇間の堰所で堰止められたふる川筋弧状に描かれている。竹野たけの塩足しおたり(現田主丸町)に接し、屋敷地は筑後川沿いの土居の南側に蜷川村と東蜷川名が描かれる。永和四年(一三七八)五月二日の今川了俊書下(大分大学附属図書館文書/南北朝遺文(九州編)五)によると、竹野庄(竹野新庄)山本郷のうちとして「蜷河」がみえ、田原氏能が父貞広討死の恩賞として与えられたが押領されていた。

本高は七三八石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高八四〇石・役高九七二石。

蜷川村
にながわむら

[現在地名]大方町蜷川・米原こみはら伴太郎ばんだろう

奥湊川おくみなとがわ村・口湊川くちみなとがわ村の東、現中村市との境界にある仏が森ほとけがもりに源を発して南流する蜷川の上流から中流にかけてと、山一つ東を南流する有井ありい川の上流をも含めた山間の村。入野いりの郷の一村。「土佐州郡志」は「東限佐賀村、西限奥湊川村、南限川口村、北限三股村、東西五町南北十五町、戸凡七十、其地沙石土色赤黒、有川流」と記す。

村名は天正一八年(一五九〇)入野七郷内地検帳にみえ、検地面積は三〇町余、屋敷数四三、うち居屋敷二〇。佐竹彦次(二)郎分と「タイノ大方殿分」によって占められ、村内の「土ゐ」(「下ヤシキ」二反三四代)にタイノ大方殿が住んでいる。一条氏一門ないし公家衆と思われる同氏の拠点であったと思われる。

蜷川村
にながわむら

[現在地名]田主丸町豊城とよき

怒田ぬた村の西に位置する。屋敷地は田主丸村の西に接し、耕地は三本木さんぼんぎ村・口高くちだか村・田主丸村などと入組む(上三郡絵図)。田主丸町のうちよこ町の一部は当村に属し、蜷川内にながわうち町と称した(「田主丸町沿革」吉瀬家文書)。蜷河とも書く。永正六年(一五〇九)一二月一五日、大友氏の代官左馬頭親賢(姓未詳)が小河藤五郎に宛てた打渡状(小河文書/福岡県史資料一〇)に「竹野郡内小河庄七拾町・同蜷河分拾町坪付在別紙」とみえる。江戸時代の本高は一二九石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高二三〇石・役高三九三石。享保一二年(一七二七)の夏物成は大麦一〇石三斗余・小麦五石一斗余・菜種一石七斗余(「本地夏物成帳」中村家文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報