改訂新版 世界大百科事典 「衛正斥邪」の意味・わかりやすい解説
衛正斥邪 (えいせいせきじゃ)
正学を衛(まも)り邪学を斥(しりぞ)けるという,朝鮮,李朝後期の体制的思想。国内的には,朝鮮朱子学を唯一の正学とし,朱子学以外の儒教の潮流および仏教を邪学として斥けた。対外的には,華夷思想に基づき,朝鮮を小中華と自認し,清その他の国々を夷狄視した。華夷思想とは,本来漢民族の世界観で,礼の有無によって世界を華と夷に弁別し,自国は礼が備わった〈中国〉,すなわち〈中華の国〉とし,他は夷狄とするものである。朝鮮は明を大中華としてこれに服属していたが,1644年に明が清に滅ぼされると,三綱五倫の礼が行われているのは朝鮮朱子学を正学としている自国だけであると,小中華を自認した。清は政治的には朝鮮の宗主国だが,文化的には夷狄であり,朝鮮が小中華であるとする(小中華思想)。その結果,清の文化の受容を拒否し,ときには北伐論のように北の清を伐(う)とうとした議論も出た。ところが19世紀に入ってキリスト教の浸透や欧米の軍事的圧力が強まると,従来は清に対して用いていた夷狄という語を,欧米に対して用いるようになった。その論理は,欧米は貨色に溺れ人倫を欠いた禽獣の地であるので,世界で唯一の汚れなき地である朝鮮を守るためには欧米を撃退しなければならない,というものであった。その結果,明治維新の後,欧米の先進文化の受容に努める日本も洋夷と同一(倭洋一体)とみなした。19世紀後半の大院君の鎖国攘夷政策はこの思想に支えられて行われた。しかし,衛正斥邪思想の本質は,対外的危機に際して朝鮮王朝の支配体制を固守し,国内外の情勢の変化に即応する一切の変革を拒否するものであった。それゆえ,外からの侵略に対して一時的に強固な抵抗思想になったとしても,体制的矛盾が激化する中で,その影響力を喪失してゆかざるを得なかった。すなわち,抵抗の思想ではあったが変革の思想ではなかったのである。衛正斥邪を唱えた19世紀以降の主な人物としては,李恒老,奇正鎮,金平黙,崔益鉉,柳重教,柳麟錫などが挙げられる。この思想に基づく運動としては,斥邪上疏(上疏とは,国王への意見書提出のこと),義兵闘争がある。
執筆者:原田 環
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報