朝鮮,李朝末期の政治家,李昰応(りかおう)のこと。字は時伯,号は石坡。全州の人。南延君,球の四男として生まれ,興宣君に封ぜられたが不遇であった。しかし1863年に次男の命福が第26代の国王高宗(在位1863-1907)として即位すると大院君(すなわち興宣大院君)となり,摂政として実権をふるった。ちなみに大院君とは,李朝において国王に直系の王位継承者がいない場合,王族内の他の系統から次王を選び,その王の実父を尊称するものである。大院君は興宣大院君に限られるものではないが,今日では一般に興宣大院君を指して用いる場合が多い。彼が最初に政権を担当した10年間は,国内的には紀綱の弛緩と財政の逼迫(ひつぱく),対外的には欧米諸国からの開国への圧力,といった内外ともに厳しい情勢下にあった。そこで彼は国内政策としては,備辺司の廃止,三軍府の復活,書院の撤廃,景福宮の再建,天主教徒の弾圧(丙寅教獄),洞布の徴収などを行い,対外政策としては鎖国攘夷政策(衛正斥邪)を強化して2度の洋擾(ようじよう)(1866,71),日本との書契問題(1868-76。〈江華島事件〉の項参照)などを惹起した。攘夷の決意を表明した斥和碑の建立(1871)に示される彼の鎖国攘夷政策は,外国の侵略を撃退するうえでは成果を挙げたが,朝鮮の近代化を遅らせる結果となった。結局,書院の撤廃,景福宮の再建などに強く反対する崔益鉉(さいえきげん)ら儒生の反発と,高宗の王妃である閔妃(びんひ)およびその一族との対立から1873年に下野した。
1882年の壬午軍乱で閔氏政権が一時的に倒されると,再び政権を握り,閔氏政権の日朝修好条規以来の開国路線を否定して統理機務衙門や別技軍を廃止し,旧来の官制を復活した。しかし,開国派(金允植らの対清協調派)の要請と日清両国自身の思惑から両国軍が武力介入したため,彼の鎖国攘夷政策復活の企ては失敗に終わり,清の保定に幽閉された(1882-85)。その後,95年に政権に関わったが,彼の閔氏に反対する立場を利用しようとした日本の意図によるものであって,往年の精彩はみられなかった。
執筆者:原田 環
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李(り)氏朝鮮第26代王高宗の父で政治家。姓名は李昰応(りしおう)。1863年、第25代王哲宗が死ぬと、哲宗に実子がなかったので、自分の第2子を高宗として即位させた。国王に直系の王位継承者がないとき、王族内から次の王を選ぶが、大院君とは、その王の実父の尊称。固有名詞ではないが、今日では一般に李昰応をさす。大院君自らは摂政(せっしょう)として政権を握り、解体しつつあった封建体制を建て直し、王朝の危機を打開しようとした。まず60年続いた外戚(がいせき)安東金氏の勢道(せどう)政治を廃し、広く人材を登用する一方、47か所の賜額書院を除いて、党争の根源となっていた書院を撤廃し、「六典(りくてん)条例」「大典会通」などを刊行して法律制度の確立を図るなど、中央集権的な政治機構を樹立した。さらに備辺司(びへんし)を廃止して行政権と軍事権を分離する一方、税制の改革にも着手、農民の負担を軽くし、国庫の充実をも図ろうとした。しかし同時に、李王家の威厳を誇示するために、炎上したままになっていた景福宮の再建に着手、不足な財源を調達するために願納銭を強制し、民衆の生活苦を加重させた。また外国に対しては徹底した鎖国政策をとり、キリスト教徒には大弾圧を加えた。66年、アメリカの商船シャーマン号が大同江をさかのぼって侵入したのを撃退。さらに同年9月、「キリスト教徒弾圧への復報」を名目としたフランス艦隊の江華島侵入をも撃退した。全国に「斥和碑(せきわひ)」を立て、ますます鎖国を強化した。
しかし大院君によって権力を奪われた両班(ヤンバン)勢力は、高宗の妃である閔(びん)妃を中心に結集。1873年には国王親政を名目に、大院君から政権を奪い、閔妃一族が権力を握り、以後両者の対立は深まった。82年、壬午(じんご)軍乱で一時権力を握ったが、閔妃の策動で清(しん)国軍が出動し、清国から派遣された馬建忠らによって捕らえられ、天津(てんしん)保定府に4年間幽閉された。85年帰国し、雲峴(うんけん)宮に蟄居(ちっきょ)して再起の機会をうかがっていたが、95年閔妃が殺害されると、日本公使三浦梧楼(ごろう)の後押しで政権を掌握した。しかし、すでに彼の政治的使命は終わっており、日本の傀儡(かいらい)にすぎず、三浦の召還で大院君も隠退した。高宗は大院君の葬儀にも出席しないほど父子関係は悪化したまま終わった。
[宮田節子]
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1820~98
朝鮮王朝末期の王族。第26代高宗(李太王(りたいおう))の生父,摂政として一時権勢をふるった。本名李昰応(りしおう)。前半生は不遇であったが,哲宗の没後,第2子を王位につけ,みずから摂政となり,それまで政権を支配していた外族,威族の勢力を押えて李氏政権を確立し,果断な内政改革と対外鎖国政策を強行した。1873年,李太王妃閔氏(びんし)とその一族によって国王親政の名のもとに引退させられ,政権を閔氏一派に奪われた。82年,壬午(じんご)政変に乗じて閔氏一族の一掃を企て,かえって清国軍隊に捕えられて3年間清国の保定に抑留された。日清戦争後,日本の後援によって親日政権をつくったが,短期間で失脚引退した。
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1820.12.21~98.2.22
李氏朝鮮の国王高宗の父。1863年高宗即位にあたり摂政となり,対内的には中央集権・王権強化策,対外的には鎖国政策を推し進めたが,閔(びん)氏戚族と対立し一時勢力を失った。82年(明治15)壬午(じんご)事変で擁立されたが,中国の保定に幽閉され,94年には日本の後援で摂政となり,翌年閔妃(びんひ)殺害事件でも担がれたが,国王のロシア公使館への脱出で失脚。
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…その結果,明治維新の後,欧米の先進文化の受容に努める日本も洋夷と同一(倭洋一体)とみなした。19世紀後半の大院君の鎖国攘夷政策はこの思想に支えられて行われた。しかし,衛正斥邪思想の本質は,対外的危機に際して朝鮮王朝の支配体制を固守し,国内外の情勢の変化に即応する一切の変革を拒否するものであった。…
…ところで朝鮮は清の属国とされていたので,〈皇〉〈勅〉は朝鮮にとって清の皇帝とその命令を意味するものと考えられていた。その結果,大院君政権は,日本がこれらの文字を使用したのは従来の交隣関係を破棄して朝鮮の上に立とうとすることを示したものとして,書契の受理を拒絶した。いわゆる書契問題である。…
…1882年(壬午の年)7月に朝鮮の首都,漢城(ソウル)で起きた軍人暴動。1873年に大院君(興宣大院君)から閔(びん)氏に政権が移ると,軍隊の待遇は悪化し,新たに新式軍隊の別技軍が設けられて優遇された。その結果,旧式の軍人たちの不満が給米の不正支給によって爆発し暴動となった。…
…19世紀後半に,鎖国を続ける朝鮮にフランスとアメリカが武力を用いて開国を強要した事件で,丙寅(へいいん)洋擾と辛未(しんみ)洋擾がある。いずれも大院君政権(1863‐73)の鎖国攘夷政策(衛正斥邪)の下で起きた。丙寅洋擾は1866年(丙寅の年)の二つの事件,ゼネラル・シャーマン号事件とフランス艦隊襲撃事件の総称である。…
…明(中華)の滅亡後は,朝鮮が唯一の小中華であるとする立場から,天主教(カトリック)の浸透や欧米の開国要求に対して衛正斥邪(えいせいせきじや)論をとなえ,攘夷論を主張した。彼の主戦論は大院君政権の鎖国攘夷政策をイデオロギー面から支える役割を果たしたため,同副承旨,工曹参判,同義禁などに任じられた。しかし,景福宮の再建,万東廟の廃止などの同政権の国内政策には強く反対した。…
…19世紀前半から半ばへかけて,封建的支配に反対する民衆の反乱が続出したが,他方では欧米列強の朝鮮侵入も激しさを増し,こうした内外からの危機の深化を背景に,1860年,崔済愚(さいせいぐ)が反封建・反侵略の民衆宗教・思想である東学を創出し,またこのころ,知識層の中からは呉慶錫,劉大致らによって開化思想が形成された。一方,1863年に成立した大院君(だいいんくん)政権は王権の強化と衛正斥邪(えいせいせきじや)(朱子学の正統性を守り,キリスト教=欧米勢力を排除する)政策によって危機の克服をはかった。こうしてその後の朝鮮近代史を規定する内外の諸要因が1860年代初めに現れてくるのである。…
※「大院君」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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